周倉
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周倉(しゅうそう)は三国志演義に登場した架空の人物。
架空の人物であるため、黄巾の乱から蜀漢滅亡まで幅広く逸話が存在する。現在一般的な周倉の人物像は『三国志演義』に寄るところが大きい。関羽の側近としてあまりにも有名なため、しばしば史実上の人物として誤記されることがある。
関帝廟として関羽を中心に関平とともに祭られ、中国や華僑の居住地で信仰の対象とされている。
[編集] 経歴
元黄巾族であったが、黄巾の乱が沈静すると同じ元黄巾族の裴元紹と山賊となっていた。その時から関羽を信仰しており曹操客将として役目を終えて、劉備の元へ帰る途中の関羽と出会い、そのまま配下となった。水軍が得意だったとされる。
その後は関羽が従軍する戦に必ず参戦し、襄陽での戦で関羽の水攻めの策が成功し孤立しながら抵抗していた魏将龐徳を捕らえた。
その後麦城の守備に就き、呉によって関羽が処刑されたと聞き王甫と共に自刃した。
[編集] 周倉伝説
周倉は架空の人物となっているためか、関羽の赤兎馬と同じ速度で戦場を自らの足で走って従軍したとされ、そこから様々な伝説を生んでいる。
- 懸命に走る周倉を哀れんだ関羽は、彼に馬を与えようと考えた。しかし、一日千里を駆ける赤兎馬に匹敵する馬など見つかるはずも無く、何とか一日九百里を駆ける馬を見つけられたのでこれを与えた。ありがたく頂いたものの、周倉は困っていた。九百里を駆ける馬では日ごとに関羽に百里離されてしまう。そこで周倉は馬に乗って九百里を駆け、残りの百里は馬を背負って自分の足で走ったという。
- ある日、関羽と周倉を離す為に呂蒙が周倉の友人を買収し周倉の足の速さの秘密を調べることとなる。その秘密とは、周倉の足の裏には3本の毛が生えていただけであった。その友人はさっそく周倉を酒で酔わせて足の裏の3本の毛を抜いてしまう。そのせいか、周倉は足が速く走れなくなってしまい呂蒙が関羽を見事に捕らえることに成功したという。