和泉守兼定
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初代兼定の子。古刀最上作にして大業物。関の孫六兼元と兄弟であり、末関の双璧をなす。
兼定と銘を切るものと「之定」と「定」のウ冠を省略「之」の字に切るものとがある。之定は多種多様な作風であり、兼定と切ったものは、山城をねらった上品な作風で、無骨さはない。「末物にはじまり末物に終わる」と言われるように玄人のあいだで珍重されている刀である。
明応二年から大永六年までの年期のある作と比較した場合、文亀二年以降のものは刃紋も書体も一貫しておらず、利隆をはじめとする複数の弟子達による代打ちであるため、古来より二代兼定は、大永年間以前・以後で区分して、前者が特に珍重された。
永正8年(1511年)、和泉守受領。神社に奉納された刀には茎に菊紋を切ったものもある。
虎徹が生きていた時、打って貰うのに代金が五十両であった時代、二代兼定は千両もしていたことから千両兼定と呼ばれている。
[編集] 用いた武将
戦国武将細川幽斎・忠興父子、豊臣秀吉の猛将、森長可が用いた。
司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」にて新撰組副長土方歳三の愛刀として広く人口に膾炙されたが、実際に土方の遺品として遺されている「兼定」は12代兼定の作(二尺三寸一分六厘)であり(二尺八寸の11代兼定は京都で使用)、「二代目兼定」ではない。土方が「二代目兼定」を所持していたという証拠は現在のところ見つかっていない。