和賀忠親
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和賀 忠親(わが ただちか、天正4年(1576年) - 慶長6年5月24日(1601年6月24日))は、戦国時代の武将。和賀義忠、又は義治の子で、本堂忠親と同一人物と言われているが、実際には別人である(本堂忠親は1599年没)。
陸奥国和賀郡を支配していた領主だが、1590年の小田原征伐に参陣せず、名代だけを派遣したことから豊臣秀吉の怒りを買って改易された。その後、伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住んでいた。1600年の関ヶ原の戦いで、領地拡大の野望を燃やす政宗の密命を受けて、旧領を回復しようとした。そして政宗の援助を受けて和賀郡を支配していた南部利直の領地に攻め込み、花巻城(鳥屋ヶ崎城)を急襲したが、北信愛と利直の反撃を受けて失敗する。そして関ヶ原の後、自害して果てた。
この事件が原因で、政宗は関ヶ原のときに徳川家康から約束されていた100万石のお墨付きを反故にされたと言われている。