花巻城
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通称 |
鳥谷ヶ崎城 |
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 | |
築城年 |
1000年代、1591年 |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
なし |
位置 |
花巻城(はなまきじょう)は、別名鳥谷ヶ崎城ともいい、陸中国(当時は陸奥国)稗貫郡花巻(現在の岩手県花巻市花城町)に位置した城。関ヶ原の戦いの際にこの城で行われた花巻城の夜討ちは地元民や岩手県民の語り草となっている。
[編集] 沿革
花巻の地に最初に根拠地を置いた武士は平安時代末期の安倍頼時である。稗貫氏が1591年の奥州仕置で没落すると、1591年に南部氏の家臣である北秀愛が花巻城を築城した。
花巻城はかつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、前九年の役の安倍頼時の城柵のあった地と伝えられている。戦国時代には稗貫氏の本城であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際して、稗貫氏は参陣しなかったため領地を没収され、秀吉の代官浅野長政の家臣浅野重吉が入城した。
天正19年(1591年)、鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められ、北秀愛が城代となるが、慶長3年(1598年)秀愛が死去し、かわって父の北松斎信愛が城代となる。同5年(1600年)南部氏が山形へ出陣している隙を狙い、和賀義忠の遺児忠親が一揆を起こしたものの、北松斎はそれを撃退し慶長18年(1613年)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めた。その後、南部利直は次男政直に2万石を与え花巻城主とし、政直は花巻城を近世城郭として完成させた。その際に本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。以後は城代が置かれ、花巻城は和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となったが、明治2年(1869年)廃城となって取り壊された。 現在、その遺構として残るのは円城寺門と時鐘堂だけあるが、近年西御門が復元され、その周辺は歴史公園として整備されている。