国民突撃隊
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国民突撃隊(こくみんとつげきたい,独:Deutscher Volkssturm,「ドイツ民族の嵐」)とは第二次世界大戦末期に近い1944年9月25日の総統命令により本土決戦に備え設けられた16~60歳の男子から成る軍事組織を指す。指揮官は軍人ではなく、ナチ党の地元指導者が任命された。ベルリンでは大管区指導者 (de) のゲッベルスが結団式に演説をする姿がニュースフィルムに納められている。傍らに駐独日本大使の大島浩中将の姿も見られた。
類似した組織に、日本の国民義勇隊がある。
[編集] 背景と編成
ドイツ軍はスターリングラード攻防戦の敗北以降、慢性的な兵員不足に陥っていたが、1944年7月には国民擲弾兵師団 (de) を編成し、14~50歳までの男子を動員した。しかし、同年後半になると連合軍はドイツ本土に迫り事態が更に深刻化したため、一般市民を最低限の訓練を施した後(最末期には訓練なしのまま前線に投入されていた)、前線に送り込むために16~60歳の男子の国民突撃隊が創られ、総計600万人の動員が予定されていた。
[編集] 実態
動員された兵士(隊員)の質は一般部隊とは格段にばらつきが大きく、第一次世界大戦に参加した古参もいれば、老人、十代前半の子供もいる寄せ集めであり、士気もお世辞にも高いとは言えなかった。
更に、大戦末期のため武器不足が深刻で、対戦車攻撃用に大量生産された使い捨てのパンツァーファウスト以外は小銃はおろか、拳銃でさえ前大戦時の物をかき集めても全てには行き渡らず、捕獲したものをそのまま使ったり、個人所有の猟銃までもが駆り出される始末だった。また、武器とともに物資も不足していたため鉄兜等も満足に行き渡らず、軍服に至っては私服に腕章を着けただけの物まで出るという有様だった。
武器もお粗末で、訓練もろくに受けず、戦闘経験が殆どない指揮官が多数を占めたため、戦力的には無いよりましという程度の存在であった。また、連合国軍との戦闘やその後の敗残兵狩りで多くの一般市民が巻き添えを食っている。
[編集] 戦史
国民突撃隊は陸軍、海軍、空軍、武装親衛隊とともに多大な犠牲を出しながらも善戦し、ベルリン攻防戦では正規軍にも劣らない活躍を見せた。しかし、国民突撃隊の指揮官は能力よりも党や指導者への忠誠心の度合いによって決まるため、無謀な死守命令が乱発され、結果多くの国民突撃兵が犠牲となっている。