国際ゴシック
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国際ゴシック(こくさい-)は、ゴシック美術の末期に、教皇庁や宮廷を中心に幻想的で細密な絵画が流行した状況に対して、ヨーロッパ共通のスタイルが成立したとして、名づけられたもの。国際ゴシック様式とも。元々は19世紀フランスの美術史家がルネサンスのルーツはフランスにあると主張するために使い始めた言葉のようである(Louis Courajod 1841-1896年)。
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国際ゴシックは、一般にシエナ派の活動がきっかけで広まったとされることが多い。シエナ派は、北方のゴシック様式とイタリアのジョットらの芸術を融合し、繊細な宗教画を描いた。中でもマルティーニ(1285年? - 1344年)はシエナ市庁舎壁画の聖母像(1315年)や受胎告知(1333年)を描き、また1340年からアヴィニョンに招かれて当時ここに置かれていた教皇庁新宮殿建設の仕事に従事した。アヴィニョンには各国からの画家らも多く訪れており、交流が活発になった。やがて14世紀後半から15世紀にかけて、ヨーロッパ各国の宮廷(北フランス、フランドル、プラハ、カタルーニャなど)やアヴィニョン教皇庁を中心に、共通した様式の絵画が流行するようになった。特にプラハは神聖ローマ帝国皇帝のカール4世(1347年 - 1378年)の本拠として、整備が進められた。
[編集] 絵画
- シモーネ・マルティーニ 『受胎告知』
- ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ 『東方三賢王の礼拝』
- ピサネルロ
- ランブール兄弟 『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』
- 写本は運搬も容易であるため、国際ゴシックの普及に果たした役割は大きい。
[編集] ルネサンスとの関係
イタリアではフィレンツェを中心にルネサンス美術が華開きつつあったが、ファブリアーノはフィレンツェで『東方三博士の礼拝』(1423年)を描いており、同時代的な現象であった。
[編集] 関連項目
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