大ドルスス
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大ドルスス(Drusus the Elder、紀元前38年1月14日 - 紀元前9年)は、ユリウス・クラウディウス朝の家系に属する古代ローマ帝国の元首政期の軍人、政治家。
本名は「ネロ・クラウディウス・ドルースス(Nero Claudius Drusus)」と呼ぶ。本稿では以下「ドルースス」と呼ぶ。
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[編集] 家族
父親はティベリウス・クラウディウス・ネロ(以下混同を避けるため「クラウディウス・ネロ」と呼ぶ)、母親はリヴィア、両方の血統からクラウディウス姓の血統を受け継いでいる。リヴィアの連れ子で、後のローマ皇帝ティベリウスは兄となる。妻は小アントニア(マルクス・アントニウスとアウグストゥスの姉オクタヴィアの娘)、子供は2人夭折したが、後にティベリウスの右腕となるゲルマニクス、リヴィッラ、そして後にローマ皇帝となるクラウディウスがいる。
[編集] 生涯
ドルーススが生まれてすぐに、リヴィアは先夫と離婚し紀元前38年1月17日にアウグストゥスと結婚する。この経緯からドルーススの本当の父親はアウグストゥスではないかと噂された。しかしながら、リヴィアがドルーススを身籠った時にアウグストゥスと会った事はなかった事、またアウグストゥスとリヴィアが結婚する時には先夫のクラウディウス・ネロがドルーススの父親である事を認知している事から後の歴史家たちにはこの説は否定されている。彼の名は最初「デキムス・クラウディウス・ドルースス」であったが、後に「ネロ・クラウディウス・ドルースス」と変わる。紀元前33年に実父クラウディウス・ネロが没するまでドルーススは兄ティベリウスとの彼のもとで育てられ、そのおかげか兄ティベリウスとは終生仲が良かった。
紀元前16年兄ティベリウスがプラエトルの任でイタリアを去ると彼はドルーススをクワエストルの官職に就かせている。そしてアルプスのラエティア族を討伐させ、撃退するが、決定的な打撃は与えられず、兄ティベリウスに援軍を要請している。こうして2人は容易にアルプスのゲルマン人を撃ち破る事ができた。
紀元前13年ドルーススはガリアでの先任の統治者に対する暴動を鎮圧、統治するため派遣されたが、その間に東方ゲルマニアよりゲルマン人がガリアに侵入、ローマ人居住者を脅かすようになる。ドルーススは軍団を率いてライン川を越えてゲルマニアの奥地深くまで侵攻。海路で北海を越えて一年のうちにフリジア人の領土を制圧した。
この業績に対して紀元前11年彼はプラエトル職に選ばれたが、官職のためにローマに戻る事はなく、そのまま春になってから再びゲルマニアに猛攻、冬になるまでゲルマン人を奥地へと追いやった。ローマ帝国領に戻る際にゲルマン人の攻撃を受けるが、敵を総崩れにさせた。軍団から絶対的な支持を受け、凱旋式を敢行した。
紀元前10年シャッティ族とシカンブリ族がドルーススの冬営地を攻撃、しかしドルーススはこれを敗走させる。その後ドルーススは父アウグストゥスと兄ティベリウスと会うためにルグドゥヌムへ、そしてローマへ赴く。そして紀元前9年にはたいした苦労もなくコンスル職に当選、しかしながら官職に就く事はなくそのままローマを後にして戦線に赴き、シャッティ族を撃破、そしてマルコマンニ族に対しての戦役を展開する。その帰路ライン川を渡ってローマ領へと帰参する途中で落馬、それが元でドルーススは命を落とした。
負傷したドルーススの元にティベリウスがやってきたが、スエトニウスが言うには彼はドルーススが息を引き取るまでローマには帰らなかったと言う。彼の遺体はローマまで運ばれ、そこで火葬にされ、皇帝廟に祀られた。
[編集] 後世の評価
このようにドルーススは軍事的に有能な指揮官であり、またアントニアはドルーススの死後も再婚はせず終生独身を貫いた事から良き夫でもあった。またアウグストゥスは彼を愛し、この連れ子に限りない栄誉を与えている。彼の死後もドルーススは軍団内では英雄として崇められ、元老院からゲルマン族を征服したという「ゲルマニクス」という称号が贈られた。死に際して、彼は自分の息子の個人名(プレノーメン)にこの称号を贈っている。
[編集] 関連項目
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