小アントニア
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小アントニア(紀元前36年-紀元37年)はユリウス・クラウディウス朝の家系に属する皇族の女性。
父はマルクス・アントニウス、母はアウグストゥスの姉オクタウィア。姉に同名のアントニアがいる。姉と区別するために「小アントニア」と呼ばれる。
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[編集] 幼少期、未婚時代
ギリシアのアテネで生まれる。すぐにローマに兄弟たちと母親に連れられた。父親アントニウスは紀元前32年に離婚、紀元前30年には自死していたので、アントニアは父親についてはあまり知ってはおらず、幼少期は専ら母親オクタウィア、義理の伯母のリウィア、そして伯父のアウグストゥスのもとで育てられた。また彼女は裕福でローマを訪れる人々を招き入れる事が多かった。その中には後に四皇帝内乱の時代に皇帝になるウィテリウスの父親もいた。
16年にネロ・クラウディウス・ドルースス(大ドルスス)と結婚。夫はアウグストゥスの連れ子で彼の妻リウィアの実子、ティベリウスの弟になる人物でもあった。2人の間には何人か子供が生まれたが、3人だけ成人を迎える事ができた。
である。
[編集] 夫の死
夫ドルススはゲルマニアに転戦中、9年に落馬がもとで死んでしまう。その後アウグストゥスから何度も再婚するよう催促があったが、彼女は独身を貫いた。その後彼女は自分達の子供達をローマで育てるが、必ずしも幸福とは限らなかったようである。まず19年息子ゲルマニクスが中東のアンティオキアで謎めいた死を迎える。31年には娘のリウィッラがセイヤヌスと結託、夫の大ドルススを毒殺する。その後セイヤヌスは処刑、リウィッラは母親アントニアのもとに送られ処断を委ねられた。カッシウス・ディオによるとアントニアは娘リウィッラを監禁、餓死させたと言う。こうして彼女のもとに残った子供はクラウディウスのみとなったが、生育が未発達なこの息子をひどく嫌い、愚か者の話をする時には「息子クラウディウスよりも愚かな人」と公然と比較の対象として蔑むほどだった。
[編集] カリグラの即位
37年にティベリウスが没しカリグラが帝位に就く。そして彼女は、妹ドルシッラが生前そうだったように丁重に扱われた。しかし、皇母リウィア以外の女性に送られた事のない称号「アウグスタ」を彼女に与えようとしたが、これを辞退する。その6ヶ月後カリグラは病に伏せ、その間彼女は何かしらの忠告を彼に与えたらしい。これがカリグラの勘に触り、同年カリグラによって自殺を命ぜられる、スエトニウスによるとカリグラによる毒殺だったとも言われている。
41年にカリグラが暗殺、息子のクラウディウスが帝位に就くと、「アウグスタ」の称号が贈られた。
[編集] 関連項目
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