大久保忠顕
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大久保 忠顕(おおくぼ ただあき、1760年(宝暦10年) - 1808年9月23日(享和3年8月8日))は、相模国小田原藩の第6代藩主。第5代藩主・大久保忠由の長男。官位は従五位下、加賀守。正室は中川久貞の娘。子に大久保忠真、娘(南部信真室)、娘(松平頼啓室)、娘(大久保教孝室)、娘(大久保教富室)。
彼が藩主の頃、小田原では天明の大飢饉や地震による小田原城や城下町の倒壊など、その治世は天災により多難を極めた。おまけに城下町が東海道一の宿場町であったことから、商品経済の渦に巻き込まれ、財政が窮乏する。
このため、忠顕は質素倹約や華美の禁止などによる財政改革を行なったが、かえって物価高騰を招いた。おまけに幕府から海防を命じられ、さらに財政は逼迫した。このため、藩の改革は彼の子・忠真と二宮尊徳によって受け継がれることとなる。
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