大久保忠真
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大久保 忠真(おおくぼ ただざね)は、江戸時代後期の大名、老中。
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生誕 | 安永7年(1778年) | |||
死没 | 天保8年3月19日(1837年4月23日) | |||
別名 | 秀次郎、新十郎 | |||
諡号 | 楽園、華岳 | |||
主君 | 徳川家斉 | |||
藩 | 相模小田原藩第7代目藩主 | |||
父母 | 父:大久保忠顕(6代藩主)、母:杉山氏 | |||
妻 | 正室:蜂須賀治昭の娘 | |||
子 | 大久保忠脩、大久保忠愨 娘(加藤明邦室、後に本庄宗秀室) 娘(牧野忠雅室) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 藩政改革と二宮尊徳
江戸時代後期となると、小田原藩でも財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていた。そのため、忠真は二宮尊徳(金次郎)を登用して改革を行なうこととしたのである。尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとしたのである。
しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである。そこでまず、忠真は文政5年(1822年)、尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地。現在の栃木県二宮町)の復興を依頼した。桜町は3000石の表高にもかかわらず、荒廃が進み、収穫が800石にまで落ち込み、これまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、そのつど失敗していたのである。
尊徳が桜町復興に成功すると、忠真は重臣連を説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した。天保8年(1837年)のことである。尊徳登用を思い立ってから15年がたっていた。(尊徳の農村復興は九分九厘成功したが、天保8年、忠真が57歳で突如として急死してしまい、後を嫡孫の大久保忠愨が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くしたために改革は保守派の反対によって後一歩というところで挫折してしまう)
また文政5年(1822年)には藩校集成館を興し、これは現在の小田原市立三の丸小学校の前身となっている。
一方、幕政においては、松平定信の推挙で老中となり、20年以上在職する。政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面で矢部定謙、川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護し、人事においては定評がある。
[編集] 年譜
- 1778年(安永7年) 生まれる
- 1796年(寛政8年) 小田原藩相続(10月8日)
- 1800年(寛政12年) 奏者番
- 1804年(文化元年) 寺社奉行兼務(1月28日)
- 1810年(文化7年) 大坂城代(6月25日)
- 1815年(文化12年) 京都所司代(4月16日)
- 1818年(文政元年) 老中(8月2日)
- 1837年(天保8年) 在職のまま死去(3月19日) 、享年60
[編集] 官位
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