大内義長
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大内 義長(おおうち よしなが、天文9年(1540年) - 弘治3年4月18日(1557年5月16日))は、戦国時代の武将、周防国の戦国武将、山口館主である。父は大友義鑑(養父は大内義隆)で、大友宗麟の異母弟にあたる。母は大内義興の娘。したがって大内義隆は叔父にあたる。また、従兄に大内義房(義隆の姉の子)がいる。
豊後国(大分県)に生まれる。1544年、実子の無い大内義隆の養子として迎えられ、時の将軍・足利義晴から一字をもらって晴英と名乗る。しかし翌年、義隆に実子・義尊が誕生したため、養子関係を解消される。1551年、陶晴賢(当時は隆房)が謀反を起こして義隆が殺されると、大内氏の新当主として擁立される(このとき、隆房は晴英を君主として敬うことを内外に表明するため、晴英から一字をもらって、晴賢と改名した)。
1553年(天文22年)、室町幕府13代将軍の足利義輝から一字をもらって大内義長と改名した。しかし大内氏の当主とはいえ、実質的には晴賢の傀儡であった。1555年(弘治元年)、晴賢が毛利元就との厳島合戦にて敗死すると、もともと統率力の無かった義長から家臣団が離反してゆき、大内氏は急速に衰退してゆく。1557年、毛利元就は山口へ侵攻し、且山城を攻め、義長は長福寺(功山寺)で自害、享年は16または17と推定されている。義長の死により、西国の名門・大内氏は完全に滅亡したのである。
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