大渤海
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大渤海(だいぼっかい、大元(国)(だいげん(こく))とも)は、渤海の滅亡後に渤海人が建国した継承国家のひとつ。
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[編集] 概説
大渤海大元(国)は、渤海の滅亡後に渤海人が建国した継承国家のひとつである。1116年1月に大元国として建国され、同年5月に滅亡した。指導者、高永昌は皇帝を名乗り、独自の年号を建元した。
[編集] 歴史
[編集] 背景
興遼国が滅亡以後渤海人は独立政権をもっていなかったが、東アジアで勢力をふるっていた契丹に衰えがみえると、これに替わって女真族や渤海人の活動が活発になった。
1115年、女真人完顔阿骨打が金を建国。女真完顔部の祖先は渤海王の大氏であると称し、また「女真と渤海は一家」と宣言するなど、文化的に未熟だった女真の新政権は、中央の文化に慣れ親しんでいた渤海出身の人材を積極的に採用した。
[編集] 建国
翌1116年1月、渤海貴族の子孫で遼の捧供官高永昌が遼の東京留守蕭保先を討って、東京城(遼陽)で大元国を建国。契丹は討伐軍を派遣して東京奪回を試みるが、高永昌は契丹軍を撃退。その後、遼陽にて大元国から「大渤海国」に改め、皇帝を称し年号を「隆基」元年とした。
[編集] 滅亡
同年5月、金(女真)が遼陽を攻略して高永昌を殺害、大渤海国は滅亡した。
[編集] その後の渤海人
1125年、金は遼(契丹)を滅ぼした。 金の時代には、渤海人貴族は引き続き貴族として列せられ、大臣や皇后が輩出した。また歴代渤海人王朝の中心地だった遼陽では渤海人によって仏教が信仰されていた。1149年、渤海王家に連なる母(大氏)にもつ金の第4代皇帝海陵王(紬古乃、完顔亮)が即位。他にも渤海人が皇室完顔氏と結びついている。