後渤海
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後渤海(928年~976年?)とは、中国東北部にあった国である。
なお、「後渤海国」には、後渤海(928年~976年?)と渤海 (再興)(989年~1018年)とがある。単に「渤海国」とよんだり「後渤海」ともよぶこともあるのはどちらも同じである。そのため紛らわしいので、前者を「復興渤海」または「渤海(復興)」、後者を「再興渤海」または「渤海 (再興)」とよんで区別する。本項では前者を説明する。
[編集] 歴史
- 926年、契丹(遼)が渤海国を滅ぼし、渤海王の大諲譔([言煙−火][言巽])は捕虜となった。契丹は旧渤海領に傀儡政権「東丹国」を設置し、皇帝の長子の耶律突欲(耶律倍)をその国王に任命。 しかし各地に勃興した反乱勢力を平定しきれず、やむなく大諲譔以下の捕囚を率いて凱旋したが、その帰路で太祖・耶律阿保機が崩御。東丹王耶律倍は太祖の遺骸とともに本国へ引き上げた。そのため渤海人の反抗運動はますます盛んになったが、その中心は王弟大某(最後の渤海王大諲譔の弟。名は不詳)であり、彼は契丹軍が渤海を滅ぼした時に戦場になった旧首都を含む北方の地を勢力圏とした。大光顕(最後の渤海王大諲譔の世子。つまり王太子)もまた契丹に降伏せず、契丹に蹂躙されることの少なかった旧渤海国西南部に潜伏し続けた。
- 928年、契丹(遼)は、東丹国を遼陽に移した(徙民政策によって渤海の中核を遼陽に移した)。多くの渤海人はここを中心に留まり独自の唐風文化を保つことになるが、一部の渤海人(金神及び六十戸・大儒範ら・隠継宗ら)はこの年高麗に移住した。東丹国の後退と入れ違いにすぐさま王弟大某(在位928−?)が忽汗城(=龍泉府)に入り、大光顕をさしおいて即位、渤海国の復興を宣言、「後渤海(復興)」を建てた。大光顕も鴨緑府を中心に反乱軍をまとめて独立、南海府(咸鏡)まで回復した。
- 929年、渤海国は、日本に裴[王翏]を、後唐に高成詞・成文角を遣使入貢、支援を求めた。
- 930年、東丹王耶律倍(本国に帰国中)が政争に敗れ後唐に亡命したため、契丹(遼)軍は引き揚げ東丹国を廃止して旧渤海領を一時放棄した(渤海(復興)による東丹国併合)。この年大光顕は、王弟大某に反乱・独立した。
- 931年、渤海国、後唐に遣使入貢。
- 934年、王弟大某は、南海府の烈氏(旧渤海の大臣一族)の協力で大光顕を追い払った。大光顕は情勢不利のまま滅亡、部民数万を率い高麗に逃亡、陳林ら及び百六十余人も後を追う。 (この烈氏一族から烈万華が出てのちに「定安国」を建てるのである)
- 935年、渤海国(=後渤海)が後唐に遣使入貢する。
- 936年、かつて大光顕を追い出した烈万華が南海府から鴨緑府に移る。(この烈万華がのちに「定安国」を建てるのである)
- 937年、長白山(白頭山)噴火、後渤海国に打撃か?
- 938年、烈万華(在位936頃−976〜9頃)、後渤海から独立、「定安国」を建国。
- 946-947年、長白山の噴火(二度目)、後渤海国に打撃か?
- 954年頃?、渤海の酋豪・崔烏斯ら三十人、後周に来帰。この後、渤海の国名はしばらく歴史から途絶え、「定安国」にとってかわられたものと思われる。