大高忠兵衛
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大高忠兵衛(おおたかちゅうべえ、文政6年(1823年) - 元治元年7月4日(1864年8月5日))は、江戸時代末期(幕末)の勤王の志士。播磨国揖保郡林田村・常城広介の次男で林田藩郷士。
14歳のときに甲冑職人・大高又次郎重秋の養子となる。のち姫路城下に移り、志士と交流が始まる。1848年(嘉永元年)、梅田雲浜のすすめで上洛。衣棚押小路入るで甲冑商を営みつつ、養父又次郎とともに、諸藩の藩邸に出入りして情報収集をするなどの政治活動に奔走する。また、志士の武器・甲冑調達にも貢献した。1864年(元治元年)6月5日、池田屋事件に居合わせ、新選組によって捕縛され、7月4日に六角牢で獄死。享年42。墓は梅田雲浜と同じ安祥院。贈従五位下。
元禄年間の、赤穂四十七士の一人大高源吾忠雄の末裔と称していたとされるが、自身は常城家の出であるので、血統のつながりはないと思われる。