天母教
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天母教(てんもきょう)は日本統治時代の台湾に生まれた神道系の新宗教の一つである。扶桑教の一派とされ、中治稔郎によって創立された。
その教義は、日本の天照大御神と中国の海神である媽姐(天上聖母)が同一のものであるとするもので、台湾における民間宗教を取り込み、その教化を図ったものである。なお、教名の「天母」とはその(天照・媽姐)女神のことを指す。また、そこでは「母の愛情は人類の最も強きもの」であると考えられており、母性愛こそが神の「最大霊徳」つまり仁愛を示すものとされている。そのため神は女性の姿をとって現れると説かれている。その他、殆どの宗教と同じように勧善懲悪の教えを持っているが、戦前の宗教であるため尊皇・愛国も説かれている。
教団の中心は、台北の三角埔に建設した天母神社であり、その御神体は中国福建省湄州から譲り受けた媽姐像であった。
布教とともに、本拠地の三角埔(後に天母と呼ばれるようになる)で温泉の採掘や旅館、バスの経営を行い、また、教会を中心とした高級住宅地の開発を計画するなど、開発事業と密着している宗教でもある。
天母教は、終戦を迎えると教祖である中治稔郎が帰国し、事実上消滅することとなる。しかし、その地域(天母)は後に発展し、直接の因果関係はないものの、天母教が構想していた通り高級住宅街となっている。
[編集] 略歴
天母教の歴史は非常に短い。また、それは前述した通り、本拠地三角埔の開発と歩を一にしている。
- 大正14年 教団創設
- 大正15年 台北市元園町に教会、神殿、拝殿、付属集会所と教主住宅を建設。
- 昭和5年 教主中治稔郎、布教と資金集めのため台湾全道行脚を開始する。
- 昭和6年 台北州士林街三角埔に湧出する温泉の権利を獲得。ここを本拠地とする事を定め、同地の開発を重田栄治との共同事業として進める。(開発の全用地は約9万坪)
- 昭和8年 引湯工事に着手。
- 昭和10年 引湯工事終了。付属公衆浴場、神苑、仮神殿を竣工し、移転。
- 昭和20年 敗戦。
- 教主の日本引揚げのため、教団消滅。
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