太平公主
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太平公主(たいへいこうしゅ、665年? - 713年)は、唐の皇帝高宗の娘。母は則天武后(武則天)。公主は皇帝の娘を言うが、太平公主の場合、父母ともに皇帝である。清代1814年に成立した『全唐文』の記述から、本名を李令月とする説もあるが、異論もある。
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[編集] 武則天の愛娘
高宗の末の娘として生まれた。8歳の時、太平の号を授けられる。母の武則天は、自分と容姿や性格がよく似ていた娘の太平公主を寵愛し、吐蕃から公主の降嫁を願う申し出があった際も、決して赦さなかった。
681年薛紹に嫁して二男二女を生んだものの、夫は皇族・李沖の謀叛に連座して捕らえられ獄死。続いて690年武攸曁に嫁いで二男一女を生んだ。
[編集] 武周期の公主
病気がちな高宗に代わって垂簾政治を執り始めると、その相談役として武則天政権の一翼を担う。やがて690年母は皇帝に即位し武周王朝を建てる。公主も母の側近として隠然たる勢力を持った。母が病に倒れた後、その愛人であった張易之・昌宗兄弟が専横を極めたため、705年張兄弟を倒し、中宗を即位させることに成功し、皇族中の重要人物として名を高める。
[編集] 武韋の禍
その後宰相張柬之により武則天は退位し、唐王朝に復するが、張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が、張柬之を失脚させ、安楽公主(中宗と韋后の娘)と結び、701年不倫の暴露を恐れた安楽公主が韋后と組んで中宗を毒殺。第二の武則天になるべく韋后が温王李重茂を擁立して(殤帝)、傀儡としたのを危ぶみ、甥の李隆基(のちの玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をことごとく誅殺して、隆基の父の相王李旦(太平公主の同母兄)を即位させた(睿宗)。ここに皇妹として太平公主の権勢は頂点に達し、万戸の封を与えられ、所生の男子三人もそれぞれ王に封ぜられ、一族も高位高官を占めた。一方、宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極めるが、これらのことにより、次第に皇太子・隆基と対立を深めていくこととなる。
[編集] 玄宗との対立と死
712年、睿宗が皇太子・隆基に譲位すると、皇帝(玄宗)と公主の対立は激化。公主は英明な玄宗の廃立を図るが、陰謀が露顕。713年皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った。以後、玄宗の独裁体制が確立し、「開元の治」と呼ばれる唐朝の最盛期につながっていく。