奥平昌能
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奥平 昌能(おくだいら まさよし、寛永10年7月21日(1633年8月25日) - 寛文12年7月2日(1672年8月24日))は、江戸時代の大名。下野国宇都宮藩主、出羽国山形藩主。父は奥平忠昌。生母は正室・鳥居忠政の娘・桂岳院。徳川家康の玄孫。子に千福丸、奥平昌章室、松平乗春室ら。幼名、千福丸。大膳亮。
父・忠昌の死により家督を継ぐ。すでに曽祖父・奥平信昌の功績が認められるばかりか、大叔父・松平忠明の威光が轟いており、将軍家御連枝という地位を保持する御譜代の重鎮ともいえる家柄であった。ただし、昌能の性状は粗暴で、影では「荒大膳」と呼ばれていた。
寛永17年10月28日(1640年)、父に伴われて家光将軍に拝謁。
正保3年11月9日(1646年)、元服。その翌年12月12日、榊原忠次とともに幼年の徳川家綱の傳役を仰せ付けられた。
亡父の法要を営む寛文8年3月2日(1668年)、城下にある菩提寺の興禅寺において重臣間の私怨から刃傷沙汰に発展。ただし、昌能は片方の家臣に肩入れし、両成敗とはしなかった。さらに、国禁に触れる殉死騒ぎも重なって、宇都宮藩から出羽山形藩への減石転封処分を受けている。ただし、御連枝の威光、家綱将軍の傳役であったため比較的軽い処分で済まされた。
ところが、家臣間では、両成敗にならない藩の裁定に不満が爆発。主君を見限る多数が御家を立ち去った。しかも、怨恨を抱いたままの彼らの行動は、後年に江戸の3大仇討に数えられる浄瑠璃坂の仇討にまで発展する。
寛文12年6月25日(1672年)、危篤に陥った昌能であったが、長女ばかりか嫡男・千福丸にも先立たれて、嗣子が居なかった。ちょうど、甥・小次郎(忠昌4女の婿が五島盛勝。その2男)を絶家の重臣に取り立てるつもりで貰い受けていたのだが、翌月7月1日、家臣の島田出雲守が5歳の小次郎を伴って老中へ養嗣子願いを内申した。すると、末期養子の条件を十分に満たしていないまま、即日の許しを得た。翌日2日に昌能は死去、40歳。5歳の小次郎は、昌能の3女・菊姫(9歳)の婿として家督を継いだ。のちの奥平昌章である。
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