宇佐美定満
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宇佐美 定満(うさみ さだみつ、延徳元年(1489年) - 永禄7年7月5日(1564年8月11日))は、戦国時代の武将。通称は駿河守(するがのかみ)。越後国枇杷島(琵琶島)城主(現在の新潟県柏崎市)。宇佐美房忠の子。
はじめ父とともに越後守護の上杉氏の一門上条家に仕え、越後守護代の長尾為景と戦ったが、のちに長尾氏に降り、為景の死後はその子長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。景虎に反抗した一族上田長尾家の長尾政景を屈服させるのに戦功があったともいう。 永禄7年(1564年)に坂戸城近くの野尻池で長尾政景と共に溺死し、彼の死後に宇佐美氏は没落して枇杷島(琵琶島)城も廃城になった。嘗て謙信に敵対したことのある政景を粛清するため、我が身を犠牲にして政景を葬ったと言われている。これはコーエーの信長の野望シリーズで美化(?)されて取り上げられている一説でもある。 また、これ以前の永禄五年、武蔵上尾原における後北条氏との戦いで戦死したとも伝えられている。
17世紀に和歌山藩に仕えた軍学者宇佐美定祐が、当時流行していた武田信玄の軍法と称する甲州流軍学に対抗して上杉謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する宇佐美駿河守定行(うさみ するがのかみ さだゆき)という人物を上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖であると仮託し、架空の軍師宇佐美定行の名が広く知られるようになるが、そのモデルは実在の武将である宇佐美駿河守定満であると考えられている。
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