宇喜多春家
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宇喜多 春家(うきた はるいえ、生没年不詳)は宇喜多興家の子で、宇喜多直家の異母弟(母は阿部善定娘)。兄(弟説、同一人物説あり)に忠家。通称は六郎兵衛、与六郎。子に直家の養子となった宇喜多基家らがいる。河内守(遠藤秀清と混同?)。
忠家らとともに異母兄直家の創業の多くを助けた。島村盛実、宇喜多国定らに奪われていた宇喜多氏の旧領。砥石城を永禄2年(1559年)に取り返した際には、城主を任され、永禄11年(1568年)には備前国金山城に入城した記録が残る。毛利氏、三村氏との最前線を任されていた。天正元年(1573年)には亀山城主。天正9年(1581年)、直家死後も宇喜多秀家を忠家と共に補佐し、朝鮮出兵にも参加したようである。
[編集] 同一人物説
春家は兄忠家と同一人物とされる説がある。父興家が備前福岡の阿部善定の下に逃れ、その後わずか2年で病死しているにもかかわらず、善定の娘との間に忠家、春家の二人を得ていること。春家が守備した砥石城、金山城、沼城などの拠点がことごとく忠家の記録と重なること、また資料によって入れ替わりが見られ、業績や合戦への参加記録も重なること。また、通称の「六郎兵衛」はごく一部資料のみで、古い資料には兄忠家と同じ「七郎兵衛」であること。子で直家の養子となった基家が忠家の子とされる資料も多いことなど枚挙に暇がない。
兄直家を評して「前に出る時は、常に死を覚悟し、帷子を着込んでいた」と忠家が語ったとも、春家が語ったともされている。