宇喜多直家
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宇喜多 直家(うきた なおいえ、享禄2年(1529年) - 天正10年1月9日(1582年2月1日))は戦国時代の大名。通称三郎右衛門尉、のち和泉守。宇喜多秀家の父。父は興家、祖父は能家という。室は中山備中守の女、後に鷹取氏あるいは三浦氏の女とされる円融院。
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[編集] 経歴
備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城に生まれたとされる。
天文3年(1534年)、祖父・能家が島村盛実らによって暗殺されたとき、わずか6歳だった直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったという。成人すると天神山城主浦上宗景に仕え、浦上家臣団の中で頭角を現す。
直家は策謀に長けており、祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、舅である中山備中守や龍口城主穝所元常を殺害し、浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たした。
永禄9年(1566年)2月には美作へ進出した備中の三村家親を、顔見知りの阿波細川氏の浪人遠藤兄弟(又次郎、喜三郎)を起用して鉄炮で暗殺、翌年7月の明善寺合戦によりそれまで備前国西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。その後も、姻戚関係にあった金川城主松田氏、さらに岡山城主金光宗高などを没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった。
その後、天正2年(1574年)に浦上宗景と対立にあたっては安芸の毛利氏と結び対抗、天正3年(1575年)の毛利家による三村氏攻撃に加勢した。さらに浦上宗景の兄・政宗の孫・久松丸を擁立し、同年8月、宗景を播磨へ退け、備前のみならず備中の一部・美作の一部にまで支配域を拡大した。
しかし織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国方面に進出してくると、これに対抗、天正7年(1579年)5月には信長に内応したとして東美作の後藤勝基などを滅ぼしたものの、10月、直家自身も毛利家と手を切って信長に臣従する。以降美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返すが、天正9年末頃に岡山城で病死。その死はしばらく隠されたといい、翌10年(1582年)1月9日が公式な忌日とされている。法名は涼雲星友。
[編集] 直家の評価・その他
古くは近世初頭の著述家小瀬甫庵が自身の著作「太閤記」で、斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人としており、また出雲の尼子経久・安芸の毛利元就と共に中国地方の三大謀将と言われる。 他方、戦前には皇室御料の備前鳥取庄を回復したことから勤皇家の側面も評価されたこともある。
伝えられるところでは暗殺・謀殺の行いが多いため、あまり人気が無い武将であるが、少数ながら熱烈なファンも存在する。直家の生涯を小説化したものに高橋直樹著の『黒い風雲児』(新人物往来社)があるが現在は絶版である。(図書館等で閲覧可能)
[編集] 関連項目
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