安藤正勝
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安藤正勝(あんどう まさかつ、天保14年(1843年) - 慶応3年(1867年))は、江戸時代末期の幕末志士。通称・鎌次。土佐藩足軽として久万村に生まれる。
出自は不明だが、多くの勤王志士たちと接触を持った挙句、藩内屈指の勤王論者となった。慶応年間になってから、京の土佐藩邸詰を仰せ付かり、そこで一時、坂本龍馬に師事。国事に関わるようになる。しかし、幕府によって三条大橋に長州藩を批難(罪状告発)する制札が立てられると、これに反発した正勝ら、過激派の志士は上士・宮川助五郎、同僚・藤崎吉五郎ら7名とともに制札撤去に乗り出す。その際、会津藩兵に遭遇し悶着となり、宮川は捕縛、藤崎は斬殺され、正勝は負傷しながらも土佐藩邸まで存えることが出来たものの、騒ぎが大きくなるのを憂い自刃したという。傷が深く、とどめを刺すよう懇願したとも言われる。
没した日付には諸説がある。後年、従五位が贈られている。