宮永正運
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宮永正運(みやながしょううん、享保17年(1732年) - 享和3年(1803年))は、越中国砺波郡下川崎村(現在の富山県小矢部市下川崎)出身の農学者。宮永正長の長男として生まれた。幼名は幸次郎。通称は十左衛門。俳諧の号は桃岳。(名前の読みについては、「せいうん」と音読みする説、「まさかず」又は「まさゆき」など訓読みの名乗りであったとする説もある。ここでは古文書研究の郷土史家に一般に使われている「しょううん」とした)
宮永家は加賀国守護職富樫家の一族・宮永氏(加賀松任が本拠)を祖とする。
[編集] 生い立ち
32歳で五代目の家督を嗣ぎ、49歳で加賀藩より砺波・射水両郡の蔭聞横目役(かげききよこめやく)・山廻役(やままわりやく)を命じられ、新川郡を加えた越中三郡の産物裁許役をも兼ねた。著書に、「荒年救食誌(こうねんきゅうしょくし)」「養蚕私記(ようさんしき)」「私家農業談(しかのうぎょうだん)」がある。また農業関係のほか「春の山路(はるのやまみち)」、「越の下草(こしのしたくさ)」、句集「桃岳句集(とうがくくしゅう)」「世々の楪」(せぜのまど)など文芸関係の著書がある。
[編集] 農書
「私家農業談」は、寛政元年(1789年)に書かれた。稲、綿、桑、茶、多くの蔬菜類について栽培の仕方を分かりやすく解説したもの。それまでの数々の農書について研究し、越中砺波の地で自ら実践し、砺波の風土を生かした農法をまとめた。今も高く評価され、「日本農書全集」の一部として復刻版が発行されている。全6巻本からなる。たとえば、五箇山の農業事情について引用すると次のとおりである。「稗(ひえ)を平日食すれば六腑を潤し長寿を得るという。越中五ヶ山は水田なき故、多く山畠に稗を作りて、稗粥、稗炒粉を似て常食とせり、此故にやよりけん男女とも百才の齢に及ぶもの多し」ここでいう稗は日本原産の「ノビエ」を品種改良し食用としたもので、冷害、旱魃、病気にも強く昭和初期までは、東北地方をはじめ全国で栽培されていた。
「荒年救食誌」は、浅間山の噴火に端を発したとされる全国的な「天明の大飢饉」における自らの体験をもとに、普段から食糧の蓄えることを説いた。
「養蚕私記」は、養蚕について古老からの聞き書きをまとめたもの。実際には正運の子である正好が編纂して世に出したとされている。
[編集] 地誌、紀行文
「越の下草」は、天明6年(1786年)頃書かれた。内容は、正運が加賀藩の山廻役という役目がら領内を広く廻り、その折りの見聞を書き留めたもので、越中各地の地名の由来・名所旧跡・神社仏閣の来歴・産物・山川湖池の様子・伝説・奇談など多岐多彩にわたる。流布本は3巻であるが、正運が編纂した稿本は6巻からなる。東京大学資料編纂所で所蔵の稿本が解読され昭和55年(1980年)に刊行された。
「春の山路」は、小矢部川の支流子撫川(こなでがわ)流域の紀行文で、宮島峡などを紹介し、自らの和歌、俳句も多数残している。