富岡藩
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富岡藩(とみおかはん)は、肥後国天草郡(熊本県天草郡)を領有した藩。藩庁は富岡城(苓北町富岡)に置かれた。天草藩ともいう。
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[編集] 略史
慶長6年(1601年)より、天草郡は唐津藩領(4万2千石)となっていた。慶長10年(1605年)唐津藩主寺沢広高により富岡城と城下町が完成した。2代堅高は寛永14年(1637年)に勃発し寛永15年(1638年)に終結した島原の乱の責を咎められ天草郡を没収された。
同年、備中国成羽藩より外様大名の山崎家治が1万石加増の4万2千石で入封し富岡藩が成立した。家治は成羽藩での新田開発などの能力を買われ、乱で荒廃した天草の立て直しを任された。再建も一段落した寛永18年(1641年)さらに1万石を加増され讃岐国丸亀藩に移封となった。
山崎氏移封の後は天領となり代官として鈴木重成が着任した。重成は天草郡の石高は実収に見合っておらず、半減すべきと主張し抗議の為に自刃した。重成の主張は万治2年(1659年)ようやく幕府に認められ、天草郡の表高は2万1千石となった。
寛文4年(1664年)譜代大名の戸田忠昌が三河国田原藩より1万石加増され新石高の2万1千石で入封し再び立藩した。忠昌は幕府より富岡城の修築を申し渡され銀200貫目を与えられた。しかし、今後も必要となるであろう城の修繕費が領民の負担になると思い、寛文10年(1670年)三の丸を陣屋として残し富岡城を破却した。寛文11年(1671年)忠昌は天草は天領であるべきと主張し認められた。忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となった。以後、天草郡は天領となり明治維新を迎えた。
[編集] 歴代藩主
[編集] 山崎(やまざき)家
外様 4万2千石 (1638年~1641年)
- 家治(いえはる)〔従五位下、甲斐守〕
[編集] 天領
4万2千石→2万1千石 (1641年~1664年)
- 代官
- 鈴木重成(1641年~1653年)
- 鈴木重辰(1655年~1664年)
[編集] 戸田(とだ)家
譜代 2万1千石 (1664年~1671年)
- 忠昌(ただまさ)〔従五位下、伊賀守〕
[編集] 廃藩
天領(1671年~1871年)