富岡城
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富岡城周辺の航空写真 (1974年撮影・国土航空写真) |
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通称 |
臥龍城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
寺沢広高 |
築城年 |
1605年 |
主な改修者 |
山崎家治 |
主な城主 |
寺沢氏、山崎氏、戸田氏 |
廃城年 |
1670年 |
遺構 |
石垣、堀切 |
位置 |
富岡城(とみおかじょう)は、肥後国天草郡(熊本県天草郡苓北町富岡)にあった城。
目次 |
[編集] 概要
富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。
平成6年(1994年)より城の発掘・復元が計画され、国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。平成17年(2005年)3月復元作業が終了し石垣や櫓が復元され「富岡ビジターセンター」となって、天草の歴史・文化などが紹介されている。
[編集] 沿革
慶長5年(1600年)天草郡を含む肥後北部を領していた小西行長は、関ヶ原の戦いにおいて西軍方に参陣し敗れた。このため所領は没収され、翌年の慶長6年(1601年)東軍に参陣し功績のあった唐津城主・寺沢広高は天草郡4万2千石を与えられた。広高は肥前唐津から離れたこの地を治めるために、慶長10年(1605年)富岡城を築き城代を置いた。
寛永14年(1637年)10月28日(新暦12月14日)、10日ほど前に島原で蜂起した領民に続き、天草でも領民が蜂起した。こうして、島原・天草一揆が始まった。富岡城代の三宅籐兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍との戦闘が繰り広げられた。しかし数に勝る一揆軍により11月14日(新暦12月30日)に三宅籐兵衛は討ち死にした。11月19日(新暦1638年1月4日)、一揆軍は富岡に迫り城下町と城を攻撃した。戦死した城代に代わり原田伊予が指揮を執り、猛攻によく耐え11月25日(新暦1638年1月10日)には一揆軍を撤退させた。一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。寛永15年(1638年)2月28日(新暦4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。しかし、一揆の勃発を許した堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収された。なお、堅高は正保4年(1647年)に自害し寺沢氏は無嗣断絶となっている。
この年、天草郡4万2千石は山崎家治に与えられ、備中国成羽城より入城し富岡藩が成立した。家治は入封すると早速、城の改修に着手した。百間塘と呼ばれる土手道を整備し、袋池を構えて内堀の代わりとした。また、大手門を造営した。寛永18年(1641年)城の改修が終了したが、この年に家治は讃岐国丸亀城に転出となった。
寛永18年以後は寛文4年(1664年)まで天領となった。初代代官として鈴木重成が承応2年(1653年)まで務めた。重成は天草郡の石高4万2千石は過分であり半減すべきであると訴え江戸で切腹した。重成の後は子の重祐が継いだが13歳と年少であった為、明暦元年(1655年)甥の重辰が天領代官を継ぎ寛文4年まで務めた。
寛文4年、三河国田原城より戸田忠昌が入城し再び富岡藩が立藩した。忠昌は城の維持管理が領民への負担を強いていることに疑問を感じていた。このため寛文10年(1670年)忠昌は遂に三の丸に藩庁を残し、本丸・二の丸を破却し廃城とした。これは「戸田の破城」と呼ばれ、良策として後世に評価された。廃城となった後は三の丸が陣屋として残った。破城の翌年の寛文11年(1671年)忠昌は天草は天領であるべきと主張し認められた。忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となり、以後、富岡城三の丸は明治維新まで天領代官所として機能した。