小山田一閃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小山田 一閃(おやまだ いっせん、生年不詳 - 元禄15年12月18日(1703年2月3日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野家家臣。脱盟者の1人小山田庄左衛門の父親にあたる。隠居前の通称は十兵衛(じゅうべえ)。
赤穂藩では江戸詰め100石の藩士だった。山鹿素行が赤穂へ流されたときの受け取りの護送人の中にも小山田十兵衛の名前が見える。その後、隠居して息子小山田庄左衛門に家督を譲り、一閃と号した。隠居後は娘婿に当たる松山八右衛門(旗本大久保忠庸の家臣)宅に身を寄せていた。その後、元禄14年(1701年)3月14日に浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への殿中刃傷が発生し、赤穂藩は改易となる。小山田一閃はすでに隠居の身であるうえ高齢なため、大石内蔵助の盟約に参加できなかったので、息子庄左衛門が代わりに盟約に加わり、吉良邸討ち入りに参加してくれることに望みを託した。
しかし元禄15年(1702年)12月15日の吉良邸討ち入り後、一閃は義士の中に息子の名があるはずだと探したが、どこにも見当たらない。驚いて調べてみるとなんと庄左衛門は脱盟してどこかに逃亡していたばかりか、あまつさえ同志の片岡源五右衛門からお金を盗んでいたことが発覚した。息子に絶望した一閃は12月18日に切腹して自ら生涯を終えた。元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)において47士以外に自刃した2士の1人である。なおもう1人の自刃者は、岡林杢助直之(赤穂藩組頭1000石)。
カテゴリ: 元禄赤穂事件関係人物 | 1703年没