片岡高房
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片岡 高房(かたおか たかふさ 寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、赤穂浪士47士の1人。赤穂藩では、350石取りの側用人・児小姓頭で、浅野内匠頭から最大の寵愛を受けていた。通称は、はじめ新六(しんろく)、のちに源五右衛門(げんごえもん)と称した。
[編集] 生涯
寛文7年(1667年)、尾張藩徳川家の家臣である熊井重次郎重次(知行300石御蔵米120石)の長男として名古屋に生まれる。しかし生母が側室であったため、寛文10年(1670年)に正室の子である熊井藤兵衛次常が生まれると嫡男たる地位を奪われた。高房は、弟ながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされていたようだ。武士社会の辛いところである。
延宝2年(1674年)に8歳で親戚の赤穂藩士片岡六左衛門(知行100石)に養子に入った。父熊井重次郎の弟長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいたという関係にあったためである。
延宝3年(1675年)、養父六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続。この年のうちから小姓として浅野内匠頭の側近くに仕えている。浅野内匠頭とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。また片岡は美男子でもあったため、浅野内匠頭とは男色の関係にあったともいわれており、内匠頭の片岡への寵愛はとても深かった。(注意:武士社会においては主君が家臣と男色するのはさほど変なことではない。大名は、戦国時代には戦争、江戸時代には参勤交代などのために女と寝られる機会が奪われることが多々あったため、自然に美青年の家臣に手を出したのである。)
そのため、片岡家の家禄はしばしば加増を受けた。貞享3年(1686年)4月9日には100石の加増があり、さらに元禄4年(1691年)1月12日にも100石の加増があった。この二度の加増はいずれも「片岡新六」名義になっており、この時まで片岡の通称は新六であったことが分かる。元禄4年のどこかの段階で源五右衛門に改名したと見える。
元禄12年(1699年)1月12日にはさらに50石加増され、都合350石を知行した。まさに「赤穂藩の柳沢吉保」とでも言うべき出世ぶりであり、片岡は47士の中でも1500石の大石内蔵助に次いで家禄の高い人物である。
元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には城内に供待ちをしていた。
内匠頭は陸奥国一関藩主田村右京大夫屋敷にお預けとなり、即日切腹と決まった。内匠頭切腹の副検死役である多門伝八郎(幕府目付)が記した『多門筆記』によると、片岡源五右衛門は、最期に一目浅野内匠頭と会うことができたとされている。
また田村家の資料である『内匠頭お預かり一件』によると、内匠頭は源五右衛門と礒貝十郎左衛門に宛てて「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を田村家臣の口述筆記で残したことが記されている。見て分かるとおり、文章がしり切れてしまっている。どう考えてもこれだけというのは不自然である。この後に続く文は幕府を憚って田村家で消された可能性が高い。
源五右衛門は十郎左衛門や田中貞四郎ら内匠頭の側用人たちと一緒に内匠頭の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って吉良上野介への仇討ちを誓った。
その後、吉良への仇討ちの同志を募るため、赤穂へ赴いたが、このとき赤穂藩では殉死切腹が藩士達の主流意見であったため、仇討ちの同志は集まらなかった。赤穂で同志を募ることを諦めた片岡らは、大石内蔵助の義盟にも加わらず、開城後に江戸に戻っていった。しかし片岡らは江戸急進派ともうまくいかなかった。内匠頭の激しい寵愛を受け、ただひたすら主君を思ってかたき討ちがしたい片岡と自分の腕を天下に示すためかたき討ちがしたい武芸者の堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田孫太夫らでは同じ急進派でもまったく話がかみ合わなかったのだろう。
結局、礒貝十郎左衛門や田中貞四郎ら内匠頭側近たちと一緒に独自のグループをつくって、吉良上野介の首を狙った。しかしこんな少人数、ましてろくに剣も扱えぬであろう優男の小姓たちだけで吉良の首がとれるわけはなく、元禄15年(1702年)3月、江戸急進派鎮撫のために江戸に下ってきた吉田忠左衛門から説得を受けたのを機に、ようやく大石の義盟に加わる決意をした。
その後、吉岡勝兵衛と称して南八丁堀湊町に借家。閏8月には尾張の父や兄(本当は弟だが)達に連座しないように義絶状を送っている。
12月15日未明の吉良屋敷討ち入りにおいては、源五右衛門は表門隊に属して屋内において十文字槍で戦った。また富森助右衛門・武林唯七と組にされていた(山鹿流兵法に基づいて三人一組の編成になっていた)。2時間あまりの激闘の末に、吉良上野介を討ち取って本懐を果たした。赤穂浪士一党は泉岳寺へ引き上げ、吉良上野介の首級を内匠頭の墓前に供えて仇討ちを報告している。
討ち入り後に、源五右衛門は大石内蔵助らとともに熊本藩主細川越中守の中屋敷に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕命により、切腹。介錯人は細川家家臣の二宮新右衛門。享年37。主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃勘要剣信士。
また13歳と9歳の男子(新六と六之助)がいたが、元禄16年(1703年)5月に出家したため、連座を免れた。
[編集] 内匠頭最期の目通り
片岡源五右衛門といえば、やはり浅野内匠頭との最期の目通りであろう。内匠頭が切腹の坐に向かうときに、源五右衛門が庭先にひかえて涙ながらに無言の別れをするあの場面は現在の忠臣蔵のドラマなどではもはや欠かせない名シーンの一つとなっているといえる。この場面のソースとなっているのは、浅野内匠頭切腹の副検死役だった幕府目付多門伝八郎が記した『多門筆記』である。
片岡は「最期に一目我が主にお目通りを」と田村邸の家臣達に懇願したが、このことを田村右京大夫が、正検死役の庄田下総守(幕府大目付)に告げ、「どうすればよろしいでしょうか」と対応を伺ったところ、庄田は「そんな程度のことをいちいち大検死役であるこの私に聞くな!」とまともに取り合わない。そこへ副検死役の多門と大久保権右衛門が現れ、二人は「かまわん。内匠頭に判決を読み渡している内にその者をつれて来なさい。内匠頭と距離をとらせ、刀を持たせず、その者の周りを取り囲んでいれば一目見るぐらいならば問題はない。もしその者が主君を助けようと飛び出したとしても田村家の家臣も大勢いるのだから、取り押さえられないことはないだろう。最後に一目会いたいという願いを叶えてやるのは人間として当然の慈悲であると心得るが、いかがか?」と下総守に迫った。下総守は「お好きにされよ」とだけ答えた。こうして片岡は最期に一目浅野内匠頭に目通りできたという流れである。
ただしこれらはすべて多門伝八郎の自称であることに注意を要する。『内匠頭お預かり一件』はじめ田村家の資料からそのような情報は引き出せない。赤穂義士研究家達の間では「多門伝八郎には虚言癖がある」とする説が主流になってしまっている。もちろん田村家が幕府に遠慮して資料を残さなかった可能性もあるので、断定的に伝八郎が嘘吐きと言えるわけではないが。