小石元俊
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小石 元俊(こいし げんしゅん、寛保3年(1743年) - 文化5年12月25日(1809年2月9日)は、江戸時代後期の蘭学者、蘭方医。元俊は通称で、名は国瑞。幼名は太吉。字は有素、号に大愚、碧霞山人。子は小石元瑞。門弟に斉藤方策、南部伯民、橋本宗吉らがいる。
山脇東洋の孫弟子にあたり、関西における蘭医学の主唱者。杉田玄白『蘭学事始』にも名が見られ、玄白や大槻玄沢ら江戸の蘭学者とも交友し、東西の蘭学を結びつける人物とも位置づけられる。
[編集] 略歴
山城国桂村(現在の京都市西京区桂)に生まれる。父は若狭国小浜藩家老林野氏の出自で、流浪中に小石姓に改めたという。母は後妻で柴原氏の娘。寛延3年(1750年)、父に従い大坂へ移る。医学を志し、宝暦年(1751年)には山脇東洋門下で柳河藩医淡輪元潜に師事し、元俊と改める。元潜の紹介で同じく東洋門下の永富独嘯庵にも学び、オランダ医学に接する。永富塾では亀井南冥、小田享叔とともに三傑と称された。また河内の僧慈雲に参禅。
明和元年(1764年)には父が死去。この頃西国を遊歴する。明和6年に大坂で衛生館を開業。安永6年(1777年)亀井冥南の影響で皆川淇園の家塾に入門し、『元衍』の著述に専念、陰陽五行説に基づく旧態医学を批判。皆川塾では柴野栗山らと交友する。頼春水から歴史を学ぶ。
天明3年(1783年)には伏見で人体解剖を行う。この年には妻帯。また、安永3年に江戸で出版された『解体新書』に触発され、同年に杉田玄白、大槻玄沢に相次いで合うと、江戸に出て東遊し、大槻邸に滞在した。天明8年(1788年)の京都大火で『元衍』を焼失。寛政8年(1796年)にも人体解剖を行い、『施薬院解男体臓図』として著す。享和元年(1801年)、京都で医学塾・究理堂を開き、上方での蘭学拡大に貢献した。間重富と共同出資で、傘職人の橋本宗吉を江戸の芝蘭塾へ学ばせた。66歳で死去。
著作に『元衍』、『学医要論』、『有因心論』。墓所は京都市北区の大徳寺孤蓬庵。