小笠原長時
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小笠原 長時(おがさわら ながとき、永正11年10月23日(1514年11月9日) - 天正11年2月25日(1583年4月17日))は、戦国時代の武将。筑摩郡を領する信濃守護小笠原氏の当主。林城主。小笠原長棟の嫡男。子には長隆(長男)・貞慶(三男)らがいる。
武勇に優れていたが、その秀でた武勇をかさにきて威張り散らすことが少なくなく、家臣からの信望が無かったという。南信濃へ侵攻する甲斐の武田晴信(信玄)と争い、天文17年(1548年)、2月の上田原の戦いで武田方が村上勢に敗退すると、7月には機に乗じて諏訪郡へ侵攻。さらに塩尻峠へ進撃するが、家臣の裏切りにあい、迎撃する武田方との塩尻峠の戦いに大敗。やがて信玄に領国も追われ、大名としての小笠原氏は一時、滅亡する。
その後、長時は越後の上杉謙信を頼り、そして同族の三好長慶をたよって上洛して将軍・足利義輝の騎馬指南役を務めた。しかし長慶が病死し義輝が暗殺されると再び謙信を頼った。謙信の死後は越後を離れ流浪した末、1583年、会津の蘆名氏のもとで死去した。この前年に宿敵・武田氏が織田信長に滅ぼされ、息子・小笠原貞慶が旧領に復帰しており、長時も旧領復帰への準備をしていたが、その最中に怨恨を抱いていた家臣に殺されたと言われている。