小野木重勝
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小野木 重勝(おのぎ しげかつ、1563年(永禄6年)? - 慶長5年11月18日(1600年12月23日))は安土桃山時代の戦国武将。豊臣家家臣で黄母衣・大母衣衆の1人。通称は清次郎。別名は重次(しげつぐ)、公郷(きみさと)。従五位下縫殿介。妻は筒井順慶や石田三成に仕えたことで有名な島清興(島左近)の娘である。
重勝については資料によりバラつきがあるため諸説あるが、羽柴秀吉がまだ近江・長浜城主だった頃に直参として活躍した記録がある。また1582年(天正10年)には石田三成、大谷吉継らとともに従五位下縫殿介に任官され、大名となった。1584年には丹波福知山城城主に任命され、3万1000石の所領を与えられた。
1600年の関ヶ原の戦いにおいては豊臣恩顧の大名として西軍に組し、西軍諸将・15000を率いて細川藤孝が守る丹後田辺城(舞鶴城)を攻撃し、これを開城するに至っている。しかしながら本戦では西軍が敗北したため、丹後田辺城(舞鶴城)から福知山城に撤退。ほどなく細川忠興に攻撃され開城、井伊直政や前田茂勝を通じて徳川家康に助命を請うが拒絶され、丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵において自刃した。首は京都三条河原に曝されたという。