山内豊房
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山内 豊房(やまうち とよふさ)は、土佐土佐藩の第5代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文12年2月2日(1672年3月1日) | |||
死没 | 宝永3年6月7日(1706年7月16日) | |||
別名 | 兵助(幼名) | |||
戒名 | 天曄院俊山泰雄 | |||
諡号 | 芳生 | |||
官位 | 従四位下、民部大輔、侍従兼土佐守 | |||
藩 | 土佐土佐藩主 | |||
氏族 | 山内氏 | |||
父母 | 父:山内一俊 母:鳥居忠春の娘・浄心院 養父:山内豊昌 |
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兄弟 | 山内豊房、山内豊隆、山内豊秀、休 | |||
妻 | 正室:山内豊昌の娘・多代(国、高寿院) 側室:池田綱政の娘・菊姫(玉仙院) |
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子 | 養子:山内豊隆 |
寛文12年(1672年)2月2日、山内氏の分家である武蔵指扇山内氏(新橋山内氏)の当主・山内一俊の長男として生まれる。新橋山内氏は、初代藩主・山内一豊の弟・山内康豊の子である山内一唯から始まる家系である。第4代藩主・山内豊昌に嗣子が無かったため、元禄元年(1688年)に養子となる。元禄13年(1700年)、豊昌の死去により後を継いで藩主となった。
藩政においては風水害、城下の火災などに苦しめられた。このため、領民に対して救済措置をとり、元禄16年(1703年)には藩財政再建を目指して藩札を発行し、分家の山内規重を奉行として登用し、緊縮財政政策を採用した。また、谷秦山を登用して学問を奨励するなどしたが、藩財政再建には失敗した。
宝永3年(1706年)6月7日に死去。享年35。後を弟の山内豊隆が継いだ。墓所:高知県高知市天神町の真如寺。
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