山内一豊
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文14年(1545年) 天文15年(1546年)とも |
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死没 | 慶長10年旧9月20日(1605年11月1日) | |||
別名 | 辰之助(幼名) 猪右衛門、伊右衛門(通称) |
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戒名 | 大通院殿心峯宗伝大居士 | |||
官位 | 従五位下、対馬守、従四位下、土佐守 贈従三位 |
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藩 | 土佐藩主 | |||
氏族 | 山内氏 | |||
父母 | 父:山内盛豊、母:法秀尼(梶原氏?) | |||
兄弟 | 通、山内一豊、山内康豊、米、合 | |||
妻 | 正室:見性院 (千代?、出自は若宮氏、遠藤氏説あり) 側室:なし |
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子 | 長女:与禰 養子:湘南宗化、山内忠義 |
山内一豊(やまうち かつとよ、天文14年(1545年)または天文15年(1546年)- 慶長10年旧9月20日(1605年11月1日))は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代の武将・大名。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いにおいて家康方について功績を認められたため、土佐国20万石を与えられ、初代土佐藩主となった。
- 通称は伊右衛門。もしくは猪右衛門(いえもん)。祖父は山内久豊。父は岩倉織田氏の家臣・山内盛豊。母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原氏の娘か)。弟に山内康豊。のちに康豊の嫡男・山内忠義(第2代藩主)を養子とした。
- 妻は内助の功で知られる見性院(「千代」の名で有名だが、実名かどうかは定かでない)である。
目次 |
[編集] 出自と「山内一豊」の読み
[編集] 出自
一豊の生まれた山内氏の出自については、江戸時代後半に作成された『寛政重修諸家譜』に土佐藩が提出した内容によれば、藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔である。ただし、首藤山内氏の明らかな末裔は戦国時代当時には別に備後に存在し(この山内氏はその後毛利氏に帰属し、江戸時代まで続いている)ている一方、一豊の山内氏は曽祖父以前から八代分について名前すら伝わっておらず、本当に首藤山内氏の末裔であるかどうかは不明である。また、会津地方では葦名氏に仕えた山内氏(首藤山内氏の庶流)の子が流浪して信長に仕えたのが一豊であるとする伝承もあるが、これは尾張時代の一豊の事績と合致しないために否定されている。
一豊の山内氏が尾張国(愛知県西部)に名を表すようになったのは一豊の祖父、久豊からであると考えられている。それ以前については丹波三宮城(京都府京丹波町三ノ宮)あたりを拠点としていた小豪族がそれに当たるとも考えられるが、定かではない(その可能性をにおわせる史料は残っている)。ただし一豊の父、盛豊については尾張上四郡を支配する守護代・岩倉織田氏に重臣として仕えていたことは間違いない。
[編集] 「山内」「一豊」の読み
「山内」の読みについて、多くの歴史参考書や辞典などでは「やまのうち」と訓むとされてきた。これは、先に書いたとおり土佐山内氏が祖先であるとする首藤山内氏が「やまのうち」と訓むことによる。現に首藤山内氏が苗字の元とした鎌倉・山内庄(鎌倉市山ノ内)の地名は「やまのうち」と訓む。
一方、一豊の山内氏は既出の『寛政重修諸家譜』には「やまうち」とひらがなでルビがふってある。また、淀殿の侍女であった大蔵卿局が一豊に向けて送った書簡が現在も山内家に残っているが、そのあて先はひらがなで「やまうちつしまどの」となっており、これらの点から、最近では「やまうち」と訓むのが正しいのではないかと考えられている。
次に「一豊」の読みについては、一般的には「かずとよ」と訓まれてきたが、一豊が偏諱を家臣に与えた際の訓みから「かつとよ」であると実際には考えられている。
2006年に放送された大河ドラマ「功名が辻」では、「かつとよ」「かずとよ」いずれの読みとするか製作サイドでも最後まで問題となったという。これについて、現在の山内家より「親しまれている名前で呼んでやってください」とのメッセージがあり「やまうちかずとよ」と読むことになったという。
[編集] 生涯
[編集] 立身
尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、のち信賢)の配下であり、父盛豊は家老として仕えていた。ところが岩倉織田氏は同族の有力者・織田信長と対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれる。まず弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に主家の居城・岩倉城が落城、この際に父盛豊が討死ないし自刃した可能性が高い。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し流浪することとなった。
一豊自身は当初は苅安賀城主(一宮市)浅井新八郎、松倉城(岐阜県各務原市)主前野長康、その後尾張を出て美濃国牧村城(岐阜県安八町)主牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主の山岡景隆に仕えるなどした。しかし永禄11年(1568年)頃には織田信長に仕え、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の与力となったと考えられる[1]。
その後、元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し[2]、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いにも参加し顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った[3]。このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢は、このとき矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。
「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間1570年から天正元年(1573年)の間であったと見られる。
これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の虎姫町域)で400石を与えられた。この際に秀吉自身が自身の郎党をほとんど持たないことから彼の直臣に立場を変えたと考えられる。なお、400石という禄は同僚であった浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らが同じ時期に100石台であったことから、彼らより一歩先に出るものであった。
この後天正5年(1577年)には播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2千石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や、因幡の鳥取城包囲などに参加している。
- ^ この時期の一豊に関する史料がなく、仕官時期の確定は難しい。
- ^ 初陣については諸説がある。(金ヶ崎撤退戦か)
- ^ 『一豊公御武功附御伝記』による。『信長公記』にはこのとき取った将校の首の一つとして三段崎六郎の名があり、当該人物か。三段崎の死は元亀元年という説も。
[編集] 豊臣幕下の小大名として
信長の死後もそのまま秀吉の家臣として活躍した。天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年の小牧・長久手の戦いの参加の際には秀吉から命じられて家康を包囲するための付城(前線基地)構築に当たっている。この後秀吉の甥・豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主となり2万石を領した。この時期に同じく秀次の宿老に列した中に田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末らがいる。なお、同年に起こった天正大地震によって一人娘の与祢姫を失った。このころ従五位対馬守に任官。
天正18年(1590年)の小田原の陣にも参戦し、山中城攻めに参加している。まもなく遠江国掛川に5万1千石の所領を与えられた。掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を、川向いを領する駿府城主・中村一氏とともに行っている。また、朝鮮の役には他の秀次の宿老格であった諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出している。文禄4年(1595年)には秀次が謀反の疑いで処刑され、一豊と同じく秀次付き重臣であった渡瀬繁詮はこの事件に関わって秀次を弁護したために切腹させられた。しかし、一豊は他の宿老の田中・中村・堀尾らとともに無関係の立場を貫き、連座を免れた。このときに秀次の所領から8千石を加増されている。
秀吉の死後の慶長5年(1600年)には、五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、東軍に与している。この最中、一豊は、下野国小山における軍議(いわゆる「小山評定」)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買っている。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が提案したものを盗んだといわれる(新井白石『藩翰譜』)。ただし、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っているなかで、周辺の勢力が東軍につくよう一豊が積極的にとりまとめていたことは事実である。三河国吉田城主の池田輝政などもこの時期、一豊とたびたび接触しており、なんらかの打ち合わせをしていると考えられる。関ヶ原の戦い本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの、戦前の功績を高く評価され、土佐国一国・9万8千石(太閤検地時に長宗我部氏が提出した石高、のちに山内氏自身の検地で20万2,600石余の石高を申告)を与えられた。
[編集] 土佐一国の領主として
慶長6年(1601年)に領地を掛川から土佐に移封となり浦戸城に入城する。大幅な加増があり余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し土佐国内で多くの紛争を起こした。これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、種崎浜での討伐などあくまで武断措置を取ってこれに対応した。この為に命を狙われる危険性があり、築城の際などには5人の影武者と共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例)。各地にくすぶりを残しこの課題(以前からの山内家家臣を上士、旧長宗我部氏の家臣を郷士とした差別的扱い)は次代から幕末になるまで引き継がれ坂本龍馬などの人物が生まれることになる。また、高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し(奉行は関が原の戦いの後浪人となった百々綱家を招聘、慶長8年完成)、城下町の整備を行った。また、このころに官位が従四位下土佐守に進んでいる。
慶長11年(1605年)高知城にて病死。享年60。
法名:大通院殿心峯宗伝大居士。墓所:高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院。(遺骨があるのは日輪山真如寺の墓所、妙心寺大通院には位牌のみ)
[編集] 官歴と所領推移
※日付=旧暦
- 1573年(天正元年)、近江国唐国(滋賀県虎姫町唐国)に400石を領す。
- 1577年(天正3年)、播磨国有年(兵庫県赤穂市有年)に700石を加増。時に、合計2,700石領す(石高総計については異説あり)
- 1582年(天正10年)9月25日、播磨国印南郡(兵庫県南部地域)に500石を加増。
- 1583年(天正11年)8月1日、河内国禁野(大阪府枚方市禁野本町あたり)に361石を加増。
- 1584年(天正12年)9月、近江国長浜城主となって、5,000石を領す。
- 1585年(天正13年)6月2日、若狭国高浜城主となって19,870石を領す。 8月、豊臣秀次の宿老となる。 閏8月21日、近江国長浜城主となって2万石を領す。 ※1585年(天正13年)9月から1586年(天正14年)4月の間で正五位下対馬守に叙任(『一豊公記』)。なお、豊臣家臣で一豊と同格の人物の多くは当時従五位下に叙せられているため、正五位下ではなく、従五位下の誤記ではないかとの説もある。
- 1590年(天正18年)9月20日、遠江国掛川城主として5万石を領す。さらに、10月25日、遠江国周智郡一宮(静岡県森町一宮)19980石の代官にもなる。
- 1594年(文禄3年)9月21日、伊勢国鈴鹿郡(三重県鈴鹿市)で1,000石加増。
- 1595年(文禄4年)7月15日、遠江国内の豊臣秀次所有の蔵入地より8,000石を加増。
- 1600年(慶長5年)11月、土佐国内9万8,000石(後の検地で20万2,600石)を領有する大名となる。
- 1603年(慶長8年)3月25日、従四位下に昇叙し、土佐守に転任する(『徳川実紀』)。
- 1605年(慶長10年)9月20日、卒去。
- 1919年(大正8年)11月15日、贈従三位。
[編集] 見性院
一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買った。この逸話は特に戦前日本において教科書に採りあげられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。
[編集] 史料
- 『山内家史料一豊公記』
- 『一豊公御武功附御伝記』
・・・どちらも山内家が一豊の功績をまとめたもの
[編集] 参考書籍
- 渡部淳『検証・山内一豊伝説 -「内助の功」と「大出世」の虚実』講談社現代新書、平成17年(2005年)10月刊
- 小和田哲男『山内一豊 -負け組からの立身出世学』PHP新書、平成17年(2005年)10月刊
- 田端泰子『山内一豊と千代―戦国武士の家族像―』岩波新書、平成17年(2005年)10月刊
[編集] 山内一豊を題材とした作品
[編集] 小説
- 司馬遼太郎『功名が辻』文芸春秋社、上下巻組。1965年6月/7月刊
- 永井路子『一豊の妻』文春文庫、1972年。千代の悪妻ぶりに一豊が辟易するという『功名が辻』と全く逆のストーリー。
- 橋田壽賀子『旦那さま大事 山内一豊の妻』ラインブックス、1995年。同名ドラマのノベライズ。
[編集] 映画
[編集] テレビドラマ
- 戦国夫婦物語「功名が辻」(1966年、NET〔テレビ朝日の前身〕 一豊:三橋達也、千代:団令子)
- 国盗り物語(1973年、NHK大河ドラマ 一豊:東野英心、千代:樫山文枝)
- このドラマでは司馬原作の5小説の主人公が活躍しており、『功名が辻』の主人公である千代の朗らかな魅力が人気を博した。
- 旦那さま大事(1986年、TBS 一豊:西田敏行、千代:佐久間良子)
- 司馬遼太郎の功名が辻(1997年、テレビ朝日・東映 一豊:宅麻伸、千代:檀ふみ)
- 功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ 一豊:上川隆也、千代:仲間由紀恵)
信長、秀吉、家康と戦国の三傑に仕えた一豊だが、上記のように千代を取り上げた作品以外のテレビドラマでの出番はほとんどない。NHK大河ドラマにおいても、1990年代以降に信長や秀吉がメインとなった3作品(『信長 KING OF ZIPANGU』・1992年、『秀吉』・1996年、『利家とまつ~加賀百万石物語~』・2002年)で一豊は全く登場しなかった。家康を中心に描いたドラマでも、小山評定の場面で一瞬登場するといった程度である(NHK大河ドラマでいえば『徳川家康』・1983年、『春日局』・1989年、『葵徳川三代』・2000年など)。当然、関ヶ原の戦いまでの過程が描かれたドラマでも、『真田太平記』(1985年・NHK新大型時代劇)などのように家康中心で描かれないドラマでは、一豊は全く登場しない。
[編集] 一豊公&千代様サミット
山内一豊に関連する市町村が集まって、「一豊公&千代様サミット」が開かれている。平成6年(1994年)結成。旧土佐藩に当たる高知市では、読みについては、現山内家(元侯爵)口伝(史料、系図、家臣に与えた偏諱も同様)により「やまうち かつとよ」である。
このサミット以外に、血縁関係の市町村が結成するサミットには、伊達交流サミットなどがある。
- 参加市町村
[編集] 一豊が仕えた主君たち
[編集] 山内氏の家臣
[編集] 関連項目
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