山名満幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山名 満幸(やまな みつゆき、? - 応永2年3月10日(1395年3月31日))は室町時代の武将。山名師義の四男。官称は播磨守、弾正少弼。妻は叔父の氏清の娘。
父の師義は山名氏の惣領であったが、その死後、惣領職が叔父の時義の家系に移ったことに強い不満を抱いていた。兄の義幸が病のため師義の家系の長となり、丹後国・出雲国の守護となる。
明徳元年(1390年)、将軍足利義満の命により舅の氏清とともに時義の子の時煕・氏幸を討った。その功により伯耆国・隠岐国が与えられた。
明徳2年(1391年)、分国出雲国の仙洞領(上皇の所領)横田荘を押領したことにより義満の怒りを受けて守護職を解任され京から放逐された。怒った満幸は氏清の分国和泉国を訪ねて謀反を誘った。丹波国で挙兵して、氏清とともに京へ攻め込むが敗れて山陰へ逃亡する(明徳の乱)。
剃髪して僧になり九州筑紫まで逃げるが、捕らえられ応永2年(1395年)に京で斬られた。