山崎正友
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山崎 正友(やまざき まさとも、昭和11年(1936年)11月26日 ‐ )は、日本の元弁護士。
創価学会副理事長・顧問弁護士を歴任したが、現在は創価学会に反対する立場にある。
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[編集] 概要
病を機に京都大学在学中に創価学会に入会。創価学会学生部出身初の弁護士として多大な期待を寄せられ、学会の法務に関わっていたが信仰に対する姿勢を他者に容喙されることを拒み、自己の評価は顧問弁護士としての仕事を通してだけで判断することを創価学会幹部に依頼したとされる。創価学会員の信仰の基本である朝晩の勤行については自ら録音したテープを流すなどして周囲の人間に信仰者であることを示すなど、目的達成のための合理性を優先するスタイルと計算高い所為が散見されている。いわゆるコツコツ真面目に信仰に取り組むことができないタイプであったとされる。[要出典]日本共産党宮本顕治委員長宅への盗聴や対立団体への工作等、弁護士としての本来業務を逸脱した行為を計画・主導。当時の配下であった北林芳典が山崎の行状を詳細に記録した著作を残している。 弁護士の立場から日蓮正宗と創価学会の諸問題につき調整役を務めるが、役務上知り得る情報や人脈を駆使し、やがて総本山大石寺と創価学会の間に入り静岡県下の土地転がしなどを決行。巨額な利益を不当に手中にし、秘密裏に営利企業を設立するなどの背信行為が現在では明らかになっている。 1970年代の日蓮正宗との昭和52年路線問題にも積極的に関与し、弁護士として日蓮正宗と創価学会の調整役を名乗り出る一方で双方の離間工作を図り、終始第1次宗門問題を陰でリードした。後に彼が経営する会社が45億円の負債を抱え経営危機となった際に、弁護士としての立場を最大限に利用し創価学会を恐喝。創価学会から告訴される動きを知った山崎は学会による告訴取り下げを狙い、宮本顕治宅盗聴事件の実行犯の一人として、事件の暴露を武器に創価学会側と交渉を重ねるも決裂、逮捕に至る。山崎は自己の立場を社会的に保全するために創価学会批判キャンペーンを展開。その間の週刊誌各誌の扇動はすべて山崎が変名・偽名等を駆使して行ったことが知られている。 なお、経営危機にある会社を守るために行った数々の手形詐欺(取り込み詐欺)が今日では明らかになっているが、当時の山崎配下であった塚本貴胤という人物がその詳細を著している。
1981年に恐喝罪で逮捕、1991年に懲役3年の実刑判決を受け、服役後1994年に出所した。裁判では50数箇所に亘って山崎の主張が虚偽であることを裁判所に指摘されているが、山崎は学会の内部告発を封じるための冤罪であると主張しており、再審請求の意思を表明している。しかし10年以上経過した今日でも再審請求の動きはなく、個別に起こされている裁判の処理を行う日々である。
学会内では日蓮正宗の元法主であった日顕や、公明党の元委員長であった竹入義勝などと並べて山崎正友は強い批判の対象となっている。一方で顧問弁護士として山崎を使い続けた責任が創価学会内部で論じられることは少ない。山崎正友の背信行為は裁判等を通して今日では明らかであるが、創価学会内部に存在する内部悪を追及しようとする動きは近年高まってきており、山崎事件の二の舞を避けようとする意志はむしろ一般会員に強いとも言われている。
[編集] 学会員時代の役職の変遷
- 昭和37年(26才の時):学生部グループ長
- 昭和38年(27):学生部部長
- 同(同):学生部常任幹事、学生部法学委員長
- 昭和40年(29):理事補
- 同(同):副学生部長
- 昭和42年(31):理事
- 昭和44年(33):学生部主任部長
- 同(同):副理事長
- 昭和45年(35):学生部参与
- 同(同):副総合学生部長
- 昭和56年(42):参事
- 昭和54年(43):参与
- 昭和55年(44):参与を辞任
[編集] 現在
現在では、創価学会の不当性を訴える記事を週刊誌などに掲載して生活をしているとされているが、その多くは信憑性のない捏造と呼ばれてやむを得ないものであり、それらは逐一裁判での敗訴結果が示すところである。
なお、恐喝・背信行為により創価学会から告訴・除名された後は正信会へ移籍。出獄後の山崎の身辺の世話をしたのが正信会である。創価学会に対する背信行為発覚以前から正信会僧侶浜中和道とタッグになり創価学会攻撃をエスカレートさせていたが、その後、浜中が住職をしている寺院の信者と不倫関係を持ち、夫に裁判を起こされて最高裁敗訴。現在の妻は当時タッグを組んでいた浜中和道の妻である。当然、現在浜中と山崎は犬猿の仲であり、浜中は自分が関わり、知り得る限りの山崎の行状をつぶさに記録した書を著している。
[編集] 関連項目
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