岡山不衣
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岡山 不衣(おかやま ふい、1885年 - 1943年)は岩手県花巻市出身で第一級の俳人。岩手毎日新聞社(1933年廃刊。現在の毎日新聞とは無関係)の主筆(編集長)でもあった。本名は岡山儀七。
[編集] 経歴
1885年、岩手県花巻市に生まれる。 旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学し、この頃石川啄木と出会い、短歌会白羊会(顧問は金田一京助。他のメンバーは「銭形平次」の原作者である野村胡堂や、後に医学博士となる小林茂雄や瀬川深等)を結成。当時のペンネームは残紅。
卒業後は岩手毎日新聞社へ勤務。名編集者として名を馳せ、後に主筆(編集長)となる。地元では啄木の親友としても有名である。
1909年6月25日、結婚して盛岡市加賀野に移り住んだ啄木の家に、岡山不衣の他、白羊会のメンバーだった小林花郷(茂雄)、瀬川藻外(深)、内出秋皎、小田島孤舟(岩手歌壇の父)、小笠原迷宮等が集まり、夜毎文学論に花を咲かせた。
この幸福な時期を不衣は、後に『啄木全集』付録の『啄木研究』第1号を執筆する際に、「少し大袈裟な言い分ではあるが(啄木の)黄金時代だったといってよかろう」と回想している。
1910年10月10日、不衣は啄木より長男の誕生を喜ぶ興奮に満ちた手紙を受け取る。
また、同年12月に刊行された啄木の第一歌集『一握の砂』の中の一句に、「三日ばかり上京してきた友」として、はるばる東京まで啄木を訪ねに行った不衣がモデルになっている歌がある。
この『一握の砂』の刊行前後に啄木は不衣宛てに何度も手紙を書いており、彼にとって「美しき追憶の都」である故郷、盛岡に残してきた唯一の心の拠り所が不衣であった事がわかる。
1911年8月、啄木が不衣に宛てた形で、評論『平信』を書き出すが、本人の病状悪化の為中絶。
1912年4月13日、啄木が27歳の若さで死去すると、啄木の理解者として不衣を信頼していた啄木の妻堀合節子は、盛岡の不衣を訪問し、啄木の最期の様子を伝えた。
1923年には、当時まだ無名だった宮沢賢治の詩『外輪山』(紙面には「心象スケッチ 外輪山」のタイトルで掲載)、童話『やまなし』・『氷河鼠の毛皮』・『シグナルとシグナレス』などを次々と紙面上に採用し、世に送り出した。俳人としても編集者としても精力的に活動を続け、1943年に死去。
晩年は啄木夫妻が住んだ盛岡市加賀野の家に移住し、啄木との思い出を抱きつつそこで亡くなったという。
死後、森荘已池により『岡山不衣句集』が刊行された。
物売らぬ町家殖ゑけり秋の暮 不衣