島津惟久
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島津 惟久(しまづ ただひさ)は、日向佐土原藩の第6代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 延宝3年3月30日(1675年4月24日) | |||
死没 | 元文3年9月19日(1738年10月31日) | |||
別名 | 万吉丸、又次郎(幼名)、左京(通称) 島津忠充(別名) |
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戒名 | 自得寺殿前淡州刺吏境淵道水大居士 | |||
官位 | 従五位下、淡路守 | |||
藩 | 日向佐土原藩主 | |||
氏族 | 島津氏 | |||
父母 | 父:島津忠高、母:竹井満直の娘・松寿院 養母:亀井茲政の娘 |
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妻 | 正室:酒井忠隆の娘 継室:島津綱貴の養女(島津久供の娘) 側室:井上氏 |
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子 | 三男:島津忠雅、養信院(立花貫長室) |
延宝3年(1675年)3月晦日、第4代藩主・島津忠高の子として生まれる。父の忠高は延宝4年(1676年)に死去する。このため、わずか2歳の万吉丸が後を継ぐわけにもいかず、成長するまでは一族の島津久寿が藩主として後を継ぐこととなった。そして元禄3年(1690年)5月29日、16歳に成長した惟久は、久寿から家督を譲られて藩主となる。このとき、幕府の意向もあって久寿に3000石を分与したため、佐土原藩は2万7000石となった。
その後は、久寿が無能なために起こっていた家臣団の間での対立や本家の介入を抑えて藩主権力を取り戻し、藩士の教育、そして元禄13年(1700年)には藩財政再建のために家臣の知行削減を行なっている。享保8年(1723年)5月29日、三男の忠雅に家督を譲って隠居し、元文3年(1738年)9月19日に死去。享年64。墓所:宮崎県宮崎市佐土原町の高月院。
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