左慈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
左慈(さじ、字は元放)は、中国の後漢時代、廬江の人で方士。
正史では『後漢書』方術列伝に伝記がある。そのほか『捜神記』『神仙伝』などに詳しい。
[編集] 正史における左慈
左慈はかつて司空曹操の宴席に招かれ、曹操がふと「呉の松江の鱸があればなあ」とつぶやいたとき、水をはった銅盤に糸をたらして鱸を釣りあげてみせた。曹操は手を打って大笑いし、さらに「蜀の生姜がないのが残念だ」とこぼし、「使者に蜀の錦を買いに行かせたが、あと二端を買い足すように伝えておいてくれ」と言った。左慈はすぐに生姜を手にして帰ってきた。後日、使者が蜀から帰ってきたとき、左慈に会ったので錦を買い足したと証言した。
曹操が従者百人ほどを連れて近くまで出かけたおり、左慈は酒一升と干し肉一斤を携えてそれを配った。従者たちはみな酩酊し、満腹した。曹操が不思議に思って調べさせると、酒蔵から酒と干し肉がすっかり無くなっているとのこと。曹操が腹を立てて左慈の逮捕を命じれば、左慈は壁のなかに消えていく。市場でその姿を見たという者があったので追及させると、市場にいる人々がみな左慈と同じ姿であった。
陽城山の山頂で左慈に会ったとの証言を得たので、逮捕に向かわせると、左慈は羊の群に逃げこんだ。曹操が「殺すつもりはない。きみの術を試したかっただけだ」と伝えさせたところ、一頭の雄羊が二本足で立ちあがって人間の言葉で返事をした。みなで一斉に飛びかかると、数百頭の羊がみな立ちあがって人間の言葉を話したので、捕まえることができなかった。
『三国志』では裴松之の注に引用される曹丕の『典論』、曹植の『弁道論』に登場している。
『弁道論』にいわく、「曹操は方術の士を招き寄せた。甘陵の甘始、陽城の郄倹らはみなやって来た。甘始、郄倹と共にみな300歳になると公言していた。左慈は房中術によく通じて、天から与えられた寿命をほぼ完全に生き尽くすことができた。しかしそれは固い意思を持ち深くその方法に精通したものでなければ、実行して効果をあげることができないのである。」
[編集] 三国志演義における左慈
『三国志演義』では、峨眉山で30年の修行の末、石壁の中から遁甲天書3巻(天巻・地巻・人巻)を手に入れ、方術を使えるようになったといわれている。
左慈は蜜柑を運んでいた魏の人々の前に現れ、荷物が重いと愚痴をこぼす声を聞けば、左慈は「ならば」と方術を使うと荷物は急に軽くなった。後で曹操がその蜜柑の皮を剥くと中身は空で、果肉は一つも無かった。しかし、左慈が剥くと果肉はあり、とても甘く果汁が滴るほどであった。
左慈の方術に興味を持った曹操は左慈に飯を与えると酒5斗を飲んでも酔わず、羊を1頭を食べても食べ足らないばかりか、その席で曹操を翻弄し、引退して天下を劉備に譲れば遁甲天書を譲ると言ったため、これに怒った曹操により投獄させられてしまう。しかし何度拷問しても全然苦しむ様子もなく、あきれた執行人が後で様子を見に来たら鎖は外れていた。それならばと今度は何日も食事を与えなかったが、逆に生き生きとしていったのだった。
その後も曹操により投獄され続けられていたが、ある日、曹操が開いた宴に突如として現れて蜀の地方で手に入る魚、酒、肉を持ち込み、さらに燃やしたはずの孟徳新書を出して見せた。そして杯を宙に投げると一羽の鶴になって左慈はいつの間にか姿を消した。
曹操は許褚に命じて左慈を追跡させる。程なくして許褚は歩いている左慈を発見したが、一向に距離が縮まる事はなく、まったく追いつけなかった。やがて左慈は羊の群れの中に紛れ込んだが、どれだけ探しても左慈の姿が発見できなかったので、許褚は羊を皆殺しにする。その光景を見ていた羊飼いの牧童が泣いていると、「首と胴を元に戻せ」と左慈の声が聞こえたため、牧童がその様にすると羊は全て生き返り、平然と動き出した。
報告を受けた曹操は似顔絵を撒いて左慈を探させ、発見次第首を刎ねようと考えた。左慈はすぐに発見されたが、同じ顔の左慈が引き出されること2、300人にも上ってしまった。曹操は全員の首を刎ねさせると、斬られた首が青い煙となって昇り、瞬く間に左慈の姿となった。左慈は白鶴を呼び寄せ背中に乗ると、曹操の死を予言して何処かへと去っていった。そして激しい突風が吹くと、首を刎ねられた死体が曹操に襲い掛かり、曹操は昏倒して病に伏すこととなった。