市来氏
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市来氏は、薩摩国市徃(市来)院から興る。大蔵姓であるが始祖大蔵政房の出自不詳。政房は宝亀年中に薩摩に下向し市徃院郡司となり、同院の鍋ヶ城に拠り子孫 市徃(市来)氏を称する。 4代家房が早世し妻の市前御前が後を継ぎ、のち寛元2年7月19日に外孫の政家を養子として市来院郡司職を譲る。 6代政家は、執印康友の孫.国分友成の子であり 市来氏を称して、弟の河上家忠に大蔵姓を譲り、自らは国分氏の本姓である惟宗姓を称した。以後、市来氏は惟宗姓となる。 12代久家に至り寛正3年.島津立久との戦いに敗滅し、政房以来690余年にして市来は没落し嫡家断絶となる。 《市来氏菩堤寺:来迎寺(いちき串木野市)》
[編集] 系図
政房―惟房―宗房=家房=市前御前(宗房の養女で家房の妻)=政家(国分友成子)―資家―時家―氏家―忠家―家親―久家―忠家
- 6代.政家(弘長4年,京都大番役)
- 8代.時家(建武4年8月14日.院内赤崎合戦で戦死)
- 9代.氏家(歌人、市来流蹴鞠の始祖)
[編集] 系図総論
後年の室町時代の永享年間(1429~1440)頃に、島津氏守護代の経歴をもつ酒匂氏が記した『酒匂安国寺申状』の中で弘安2年(1279年)~弘安7年(1284年)の間に、島津忠久の孫の久時と市来政家が系図総論をした事が書かれている。 この文は、島津氏が再び守護職に復職した経緯が書かれており、一族の強権支配が在地領主の反発を招く恐れがある事を示している。 久時に対し、本来同族でありながら権柄ずくで恩顧を受けている者として遇される事に不満を抱いた市来政家が忠久の父は惟宗忠康だと主張して同じ惟宗氏である事を訴えた総論。島津氏側は惟宗氏の出である事は認めたが、忠久は広言の子であり同じ惟宗氏でも家柄は違うと反論した。どのような形で尊卑論争が終結したかは記されていないが、島津氏の系図がその後も忠久の父は惟宗広言としてきた事から、島津氏の主張が通ったものと思われる。下記はそれぞれ奉行所に出したとする系図。
- (島津氏側の出した系図)
- 基言―広言―忠久(島津)―忠時―久時
- (市来氏側の出した系図)
- 知國―國廣―忠友―忠康―忠久(島津)―忠時―久時
- 知國―友廣―康友(執印)―友尚(国分)―友成(国分)―政家(市来)