平貞能
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平 貞能(たいら の さだよし、生没年未詳)は平安時代末期の武将。父は平家随一の忠臣として知られる平家貞。
父同様、平家の柱石の一人として若年時より頭角を現し、平清盛の家令を務める一方で、特に清盛長男の重盛一家に親しく仕えたという。
養和元年(1181年)清盛の死によって西海道の武士の間に不穏な動きが広まると、その鎮定のために一軍を率いて出発した。寿永2年(1183年)年に帰還するが、ちょうど源義仲による大攻勢という局面に遭遇し、平資盛とともに一軍を組織して都の防衛活動にあたる。一門の都落ちに反対し都での決戦を主張するが受け容れられず、結局一門とともに西海行きを余儀なくされる。
九州においては、かつて筑後守や肥後守を務めた経歴上大いに頼りにされ、資盛らとともに緒方惟栄の説得に当たるが、最終的に惟栄の反乱によって平家が大宰府を追い落とされると、これに深く落胆して出家、さらに平家一門から離脱して行方をくらました。
文治元年(1185年)、突如外戚筋に当たる宇都宮朝綱の許に出頭。朝綱の助命嘆願によって赦免され、以後はその客人として下野国宇都宮に退隠した。その後の消息は不明である。
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