平資盛
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平資盛(たいら の すけもり、応保元年(1161年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日))は、平安時代末期の武将。平重盛の次男、母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙。
和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。建礼門院に仕える優れた歌人の建礼門院右京大夫と恋仲であった。
嘉応2年(1170年)7月3日、摂政藤原基房の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。これを知った父重盛(平家物語では祖父の清盛)は基房に対して徹底的な報復を行っている(殿下乗合事件)。
治承4年(1180年)年5月の以仁王の挙兵に際しては、叔父の知盛、重衡、兄の維盛らと出陣し、源頼政と宇治平等院で戦いこれを滅ぼした。同年12月、知盛とともに近江国へ出陣して山本義経を破る。
寿永2年(1183年)平家は源義仲に敗れ都落ちを余儀なくされる。『愚管抄』によれば、このときに資盛は後白河法皇に都に残る許しを求めて拒絶されている。
寿永3年(1184年)2月、反攻した平家は摂津国福原まで進出。資盛は弟の有盛、師盛、忠房と播磨国三草山に陣を置くが源義経の奇襲を受け、讃岐国屋島へ敗走した(三草山の戦い)。その直後の一ノ谷の戦いで平家は一門の多くを失う致命的な大敗を喫する。
同年5月、絶望した兄の維盛が入水自殺。この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。
同年12月に資盛は備前国児島で源範頼と戦い敗北(藤戸の戦い)。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて、弟の有盛や従弟の行盛とともに入水した。
資盛の死を悲しんだ建礼門院右京大夫は供養の旅に出た。彼女の作品『建礼門院右京大夫集』には彼女と資盛が交わした歌が多く残されている。
奄美諸島の喜界島には資盛がこの島まで落ち延びたという伝説が残っている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1166年(仁安元)11月21日、従五位下に叙位。 12月30日、越前守に任官。
- 1169年(仁安4)1月5日、従五位上に昇叙。越前守如元。
- 1171年(嘉応3)4月7日、越前守重任。
- 1174年(承安4)12月4日、侍従兼任。
- 1175年(承安5)1月22日、得替。 12月8日、正五位下に昇叙。侍従如元。
- 1178年(治承2)12月24日、右近衛権少将に転任。
- 1179年(治承3)1月2日、従四位下に昇叙。右近衛権少将如元。 父重盛没。
- 1180年(治承4)4月8日、従四位上に昇叙。右近衛権少将如元。
- 1181年(治承5)5月26日、正四位下に昇叙。右近衛権少将如元。 10月12日、右近衛権少将辞任。 10月29日、右近衛権中将に任官。 祖父清盛没。
- 1183年(寿永2)1月22日、蔵人頭に補任。右近衛権中将如元。 7月3日、従三位に昇叙。右近衛権中将如元。 8月6日、解官。