幸島
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幸島(こうじま)は宮崎県串間市東部、石波海岸から200m沖合いにある島。周囲約3.5キロ、標高113m。野生猿が棲息することから猿島ともいわれる。中でも海水でイモを洗う猿は非常に有名で、島内には京都大学の霊長類研究施設が設けられている。現在は無人島であるが、前述の施設研究員が常駐している。
また、石波海岸と幸島の間は海流によって砂が堆積しているために浅く、引き潮の時には歩いて渡航することも可能であるが、渡航に際しては「幸島渡し」という渡船を利用するのが一般的である。
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[編集] 幸島の自然
全島域が日南海岸国定公園に指定されている。
[編集] 生物
幸島は自然が良好な状態で残されているため、野生動物が数多く棲息する。特に後述する野生猿生息地(天然記念物:幸島サル生息地)としてよく知られるが、その他動物ではタヌキ、野ウサギ、コウモリが棲息。鳥類ではウグイス、メジロなどのほか、クロサギ、イソヒヨドリなどの海鳥類も渡来する。
[編集] 植生
植生面では黒潮による温暖な気候のために、亜熱帯植物が繁茂する。島内には亜熱帯、その他を含め78科、196種の植物が確認されている。
[編集] 地質
沿岸は砂岩による地層(日南層)が取り巻いているため急峻な海崖が発達。海蝕、風蝕が激しいため、至る所に湾入した入り江が見られる。
[編集] 幸島のサル
幸島は古くからサルが棲息していたといわれ、大正時代にも旧東北帝国大学などが調査を行っており、90頭の棲息が確認されている。なぜ、人里離れた小島に野生猿が棲息していたかは不明であるが、人為的に持ち込まれたという説が有力視されている。その中で最も有名なのが、平家の落ち武者が小島に隠棲した際に猿を神使として飼い始めたというものであるが、伝承の域を出ない。もっとも、地元では幸島のサルを「和子様(わこさま)」と呼び、神の使いと見做して大切にしてきた。
しかし、戦後、米軍の統治下にあった頃、米軍司令官にペットとして献上するために子ザルが狩られてしまい、サルの個体数は激減した。後述する京都大学の研究員らがこの島を訪れたとき、個体数はわずか9頭しか確認できなかった(実際はもっと生存していたとも考えられるが、前述の理由から人間を恐れて山中に逃げ込み、隠れて出てこなかったと推測される)。
[編集] 京都大学のサル研究
本格的な研究を始めたのは京都大学の今西錦司と伊谷純一郎ら門下生たちで、戦後間もない頃だった。彼らは当初、都井岬の半野生馬「岬馬」を対象とするため、調査に来ていた。幸島に野生猿が棲息していることを知ると、「馬では複雑な家族関係や社会が成り立っていない」ともの足りなく感じるようになり、 関心は幸島のニホンザルに向けられた。
そして、ここでの研究から「人間以外の動物にも文化がある 」という説が初めて出された。1952年に野生ザルの餌付けに成功し、より綿密な観察が可能になった。そのうち、若いサルがもらった芋を海水で汚れを落としてから食べるようになった。この「芋洗い行動」は最初は同年代の仲間に、次には上の年代へと広がりを見せるようになる。さらには、子や孫が受け継いだ。従来「文化は人間固有のものであり、動物にはない」と考えられていた。が、世代をこえ時代をこえても伝わっていることは、「芋洗い行動」を文化であるとする根拠のひとつとなっている。
サル一匹ずつすべて名前を付ける(個体識別法)、親子・兄弟関係を記録し家系図も作るといった手法もここで始められ、京都・岩田山のニホンザルやアフリカでのチンパンジーなど他所の研究でも広く取り入れられるようになる。
霊長類研究(サル学)が欧米人ではなく、京都大学を中心とした日本人によってリードされた理由のひとつに、宗教観の違いが挙げられている。キリスト教では人間は動物の頂点に立つ存在で、人間と他の動物の間には厳然とした壁がある。 「動物にも文化がある 」 という考え方は、人間も動物の仲間のひとつと考える仏教の世界観のほうが受け入れやすかったといえよう。
現在、幸島のサル及び生息地は「幸島サル生息地」として国の天然記念物に指定されており、文化財保護法によって保護されている。
[編集] 観光・交通アクセス
交通手段は都井岬から観光用の渡船が出ており、上陸は可能。だが前述の研究施設が設けられているのみで、観光施設は一切存在しない。自然教育、エコツーリズムなど純粋な自然探勝目的で訪れるのが望ましい。なお、対岸の石波海岸には、幸島を望む展望地に「フィールドミュージアム幸島パーク」という観光公園が設置されている。この公園内にはイモ洗い猿を象ったモニュメントがある。