康居
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康居(こうきょ)は、紀元前2世紀から4世紀にかけて、スィル川(シルダリア川)あたりの現カザフスタン領に存在した国の中国名。『史記』『漢書』などの中国の歴史書の記録によると、康居は月氏と風俗を同じにし、季節によって定期的に王の所在地が移動する遊牧民の国であった。民族系統は、その後も長い間この地域に割拠したのと同じテュルク系であったとみなす説が有力である。イラン系とみなす説もある。ただし、スィル川下流域の考古学調査によって定住民が存在していたことも明らかになっており、スキタイのように遊牧民の王侯が定住民を支配する王国であったと考えられる。中心都市は卑阗城。現在のタシケントかシムケント(en:Shymkent)、トルキスタン市(en:Hazrat-e Turkestan)あたりと推定される。
『漢書』西域伝の康居国の条によると、当時の人口は60万であった。前漢の張騫は、西域行において匈奴より脱出した後、康居を経て月氏に至っている。康居はこの頃は匈奴に服属していたが、紀元前36年匈奴が前漢に敗北して後は中国と直接交渉を始め、歴代王朝に朝貢した。『後漢書』によれば栗弋国、奄蔡国(改名して阿蘭聊国)、奄蔡の北の厳国を服属させたこともあるらしい。魏・西晋に朝貢した記録があるが、西晋以後の中国文献には見えなくなる。
文化的には、仏教を信奉していたことが知られる。中国に仏教を伝えた初期の高僧のひとりである3世紀の康僧鎧(『無量寿経』を訳出したといわれるが、この訳出については史実性を疑う説がある)は康居の出身といわれる。
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