弘世助三郎
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弘世助三郎(ひろせ すけさぶろう、天保14年1月3日(1843年2月1日) - 大正2年(1913年)11月17日)は実業家。近江彦根の素封家の当主。第百三十三国立銀行頭取で、日本生命の創業者。
[編集] 来歴・人物
天保14年(1843年)現在の滋賀県彦根市の旧家・川添益二郎の次男として生まれ、4歳で彦根の豪商で彦根藩の掛屋の家である叔父の弘世助市の養子となる。弘世家は嵯峨源氏の末裔で、江戸時代に彦根城下に移り住み、商人として成功し、万延元年(1860年)の「桜田門外の変」以降、彦根藩の御用金役を務めた。そこへ養子に入った助三郎は、そうした環境もあってか進取の精神に富んだ実業家で、徳川から明治に移った大変革期に、新しい事業を次々に興し、時の大財界人となった。まず、明治3年に「融通会社」を設立。これは徳川時代に使われた藩札を明治の太政官札に交換する会社で、いわば金融機関の走りであった。この仕事を通じて助三郎は、近代的な金融機関の必要性を痛感し、当時、各地にできはじめていた「国立銀行」設立に奔走する。この活躍は目覚しく、「大津第六十四国立銀行」、「彦根第百三十三銀行」、さらに大阪の「日本共同銀行」、「日本中立銀行」、滋賀の「近江貯蓄銀行」などの創立に参画した。なかでも大手銀行の設立には岡橋治助と共同で創設した第百三十三国立銀行設立があり、その後頭取を務める。第百三十三国立銀行は、後に山口銀行、鴻池銀行と合併して三和銀行(昭和8年)となり、三和銀行設立時、助三郎は非常勤取締役になっている。日本生命が三和銀行の筆頭株主であったのはこうした歴史があるためだ。いずれにしろ助三郎はあらゆる事業の先覚者となった。その中でも先進的な事業となったのが、鉄道と生命保険である。鉄道については、明治20年に関西鉄道、大阪鉄道を創立して発起人となっている。また、1886年(明治19年)には滋賀県会議員に当選。
日本に保険制度を最初に紹介したのは福沢諭吉と渋沢栄一だが、ちょうどそのころ、東京では日本初の明治生命(明治14年設立)が創立され、明治21年には帝国生命(朝日生命の前身)が事業化に成功していた。その影響を受けて、関西で最初に誕生したのが日本生命だった。明治22年7月、助三郎47歳の時である。 このとき助三郎は、先の岡橋や鴻池らの大阪財界人、また当時滋賀県知事であった中井弘の助力を得て「自分は銀行業務で多忙だから、代理で実務を担当する人物はいないか」と依頼し、当時滋賀県警察部長だった片岡直温(のちの 若槻内閣の蔵相)なる人物を得る。いわば助三郎は経営の表面には立たず、実務を片岡直温にまかせた。その一方で初代社長には、当時全国きっての大富豪だった鴻池家第十一代当主・鴻池善右衛門を推挙した。この時代生命保険は「人の命で金儲けをするのか」といわれたぐらいで、社会から認知されにくい事業だった。そのため「鴻池家の当主が社長をしている」ということで信用を勝ち得た。こうして日本生命はスタートし設立10年目には早くも日本一の契約高を誇る生命保険会社へと発展していった。
時を経て、昭和3年。日本生命三代目社長に弘世助三郎の嫡男・助太郎が就任した。いわばここから、弘世家の創業者支配が始まることになる。