桜田門外の変
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桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、江戸時代後期の1860年3月24日(安政7年3月3日、同年3月18日に万延に改元したことから、万延元年3月3日とも)に水戸藩の浪士が大老井伊直弼の行列を江戸城桜田門(東京都千代田区)で襲い暗殺した事件である。
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[編集] 経緯
独断での安政の五か国条約調印や一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を強行に採決し、安政の大獄で反対勢力を弾圧していた井伊直弼に対し、藩主の父である徳川斉昭の謹慎などで特に反発の多かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていたが、薩摩藩内の情勢の変化などにより計画は頓挫した。
東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠を出発し、東海道(現在の国道15号)に沿って進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(東京都港区、慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速道路都心環状線を過ぎる)を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせて桜田門へ向かう。一行は登城途中の井伊を江戸城桜田門で襲撃して井伊を暗殺する。井伊以外にも御供8人が死亡(現場での死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。幕末の尊皇攘夷運動が激化する端緒となる。
暗殺を決行した浪士のうち、稲田重蔵は現場で死亡し、数名は負傷の為、自刃。多くは捕縛された後に処刑されている。一部は潜伏して明治後まで生き延びた者もいる。
ただし当時の公式記録としては、井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽養子願いを提出、受理されたのちに病死した、となっている。これは御家断絶とそれによる争乱の激化を防ぐための措置であり、減封はされたものの井伊家は改易を免れた。
[編集] 関連人名
[編集] 桜田十八士
- 関鉄之介(徒士格 現場総指揮 斬り合い不参加 逃亡後捕縛、1862年斬罪。享年40)
- 岡部三十郎忠吉(検視見届役 斬り合い不参加 逃亡後捕縛、1861年斬罪。享年44)
- 稲田重蔵正辰(郡方 金子に同行を命じられたが本人の希望により固辞、襲撃参加。闘死。享年47)
- 山口辰之介正(自刃。享年29)
- 鯉淵要人珍陳(神官 自刃。享年51)
- 広岡子之次郎則頼(小普譜 自刃。享年21)
- 黒沢忠三郎勝算(馬廻組 自首後、病死。享年33)
- 斎藤監物一徳(神官 自首後、傷により死亡。享年39)
- 佐野竹之助光明(小普譜 自首後、傷により死亡。享年21)
- 大関和七郎増美(大番組 自首後、1861年斬罪。享年26)
- 森五六郎直長(自首後、1861年斬罪。享年24)
- 蓮田市五郎正実(寺社方 自首後、1861年斬罪。享年29)
- 森山繁之介政徳(町方属吏 自首後、1861年斬罪。享年27)
- 海後磋磯之介(神職 逃亡後、1903年没。享年78)
- 杉山弥一郎当人(留付列 自首後、1861年斬罪。享年38)
- 広木松之介有良(町方属吏 逃亡後、1862年自刃。享年27)
- 増子金八(逃亡後、1881年没。享年59)
- 有村次左衛門兼清(薩摩藩士 自刃。享年23)
[編集] 彦根藩
- 井伊直弼(大老 彦根三十五万石藩主。享年46)
- 岩崎徳之進重光(伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡。)
- 小河原秀之丞宗親(小姓。闘死。享年30)
- 加田九郎太包種(騎馬徒士。闘死。享年31)
- 河西忠左衛門良敬(剣豪。闘死。享年30)
- 日下部三郎右衛門令立(物頭。負傷、藩邸で死亡。享年39)
- 越石源次郎満敬(負傷、帰邸後死亡)
- 沢村軍六之文(闘死)
- 永田太郎兵衛正備(闘死)
- 朝比奈三郎八(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
- 朝比奈文之進(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
- 小幡又八郎(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
- 小島新太郎(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
- 長野十之丞(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
- 藤田忠蔵(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
- 水谷求馬(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
[編集] 襲撃に関与
- 金子孫二郎教孝(郡奉行。首謀者 伏見にて捕縛、1861年斬罪。享年58)
- 高橋多一郎愛諸(小姓頭取、矢倉奉行。首謀者の一人 大坂にて自刃。享年47)
- 高橋庄左衛門諸恵(多一郎の長男 大坂にて自刃。享年19)
- 有村雄介兼武(次左衛門の兄 薩摩藩とのパイプ役、金子、佐藤と共に上方に上る 伏見薩摩藩邸にて捕縛、切腹。享年28)
- 佐藤鉄三郎(金子に従い補佐、その後、金子と共に伏見で捕縛。追放刑 変名は安島鉄三郎。暗殺や上方道中に関して後世に書き残した。明治期に水戸藩吏。1915年没)
- 川崎孫四郎健幹(郡吏 大坂で連絡係 自刃。享年35)
- 小室治作(高橋に随行、自刃)
- 大貫多介則光(高橋に随行、捕縛後獄死。享年26)
- 山崎猟蔵恭礼(薩摩藩士との連絡役、捕縛後絶食死。享年33)
- 島男也竜雄(笠間藩士。高橋に随行、捕縛後1861年獄死。享年53)
- 小野寺慵斎(土浦藩士。兵学者。参謀の一人 1861年自刃)
- 宮田瀬兵衛(変後に一味だと熊本藩に自訴、獄死。享年47)
[編集] 関連項目
- 日本史の出来事一覧
- 飯田忠彦(国学者、同事件への関与を疑われて囚われたために抗議自殺した。享年63)
- 滝本いの(関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の妓。鉄之介の潜伏の手助けをした。鉄之介を追う幕吏に捕らえられ伝馬町牢で拷問により獄死。享年23)
- 佐久良東雄良哉(京都妙法院の武士。高橋多一郎・庄左衛門を匿ったため捕縛、絶食死。享年50)
- 後藤権五郎輝(郷士。変には関わっていないが元一味。広木松之介を名乗って自首。1862年獄死。享年32)
[編集] 参考文献
- 吉村昭著「桜田門外ノ変」(襲撃側の関鉄之助を主人公にした小説)
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