当道座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
当道座(とうどうざ)とは、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織。
仁明天皇の子である人康(さねやす)親王は盲目であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えた。人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校とされた。
鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。室町時代に検校・明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。久我家が本所となった。
その後、江戸時代には、江戸幕府から公認され、寺社奉行の管理下におかれた。
京都に惣検校が、一時は江戸にも関東惣検校が置かれた。座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれは更に細分化されており合計73個の位があったという。
江戸時代においては、当道座は内部に対しては、盲人の職業訓練など互助的な性質を持っていたが、一方では、座法による独自の裁判権を持ち、盲人社会の秩序維持と支配を確立していた。位の上下による序列は非常に厳しかったと伝えられる。外部に対しては、平曲(平家琵琶)及び三曲(筝、地唄三味線、胡弓)、あるいは鍼灸、按摩などの職種を独占していた。これは、江戸幕府の盲人に対する福祉制度としてとらえられていた。また、金銭貸付業としても高い金利を特別に許されていたため、時代劇などでは検校はあくどい金貸し業者として描かれていることがある。さらに、高位の惣検校となると大名と同様の権威を持っていた。
盲官は売買が許可されており、官位を得るためには京都にあった当道職屋敷に多額の金子を持っていく必要があった。そのような背景を持って座頭市のような物語が描かれている。
当道座は男性のみが属することが出来る組織であり、盲目の女性のための組織としては瞽女座があった。また、盲僧座とよばれる別組織も存在し、対立することもあった。
江戸時代、当道座の属する盲人の人数は、江戸時代を通じて常時3000人程度だったとされる。当時の日本の総人口から推定される視覚障害者の人数は、5万人程度とみられ、視覚障害者の一部しか、当道座などの互助組織に所属していなかったとされる説と、当時のほとんどの視覚障害者は当道座、盲僧座、瞽女座のいずれかに属していたとする説とあって、詳細は不明である。
江戸幕府の崩壊の後、1871年(明治4年)、当道座は解体され消滅した。
ただし、明治以降にもいくつかの民間団体は盲官の名称を用いることがある。あるいは、視覚障害者で、音楽などにおいて顕著な業績を上げた人への尊称として、検校などの敬称を用いることがある。