徳田大兵衛
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徳田大兵衛(とくだ おおひょうえ、1584年(天正12年) - 1634年2月13日(寛永11年1月16日))は江戸時代初期における薩摩藩日当山の地頭。徳田太兵衛(とくだ たへえ)とも呼ばれる。愛称は侏儒どん(しゅじゅどん)。
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[編集] 経歴
薩摩藩の御鷹師を勤めた後、日当山(現在の鹿児島県霧島市日当山温泉付近)の地頭となった。島津忠恒(家久)、島津光久に仕えた。寛永11年、祝いの餅をのどに詰まらせて死去。
[編集] 人物
身長が約3尺(約90cm)であったため地元では親しみを込めて侏儒どんと呼ばれている。「侏儒」とは身体の小さい人という意味であり、「どん」とは鹿児島弁において親しみを込めた敬称である。頭の回転が速く頓智の才があり、「茶の実」「スイカのゾウワタ」「桐の茶釜」などユーモア溢れる逸話が伝えられている。但し逸話のほとんどは民衆に語り継がれた口伝であり、文書としての記録は少ない。単なる道化者ではなく民衆の視点に立って主君に対し臆せず諫言する人物として尊敬されている。
- 茶の実
- ある時、殿様が領内で良い茶を栽培しようと思い立ち、領民たちに良い茶の実を探して差し出すよう命令を出した。ところがその時期は茶の実がない季節であり、無茶な命令を受けた領民たちは困ってしまった。そこで侏儒どんは近所の婆さんを連れて殿様のもとに参じ、「日当山で一番の茶の実でございます」と言った。殿様が「どこにそんなものがあるのか」と聞き返したところ、侏儒どんは「この婆さんが日当山で一番の茶飲みでございます」と言い返し、一本取られた殿様は無茶な命令を取り下げたという。
- 「名には似ず桜島にはつつじ咲き烏島には鶯の鳴く」
- 殿様から「桜島と呼ばれているのに桜がないのはどうしたものか」と聞かれたところ、この歌を返したというエピソードが伝えられている。烏島はかつて桜島のすぐ近くにあった小さな島であり、大正時代に噴火した桜島の溶岩に埋没した。