志岐麟泉
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志岐麟泉(しきりんせん、生没年不詳) 父は、志岐重弘。養子に志岐親弘。兄弟に志岐経弘がいる。天草五人衆の中の志岐氏の一族である。
天草諸島の志岐城主であり、キリシタン大名でもある。洗礼名は、ドン=ジョアン。名前は、キリシタン大名で有名な、大友義鎮(宗麟)の麟の字をもらい、麟泉と名乗った。豊臣秀吉の九州征伐で、島津氏が降伏すると、志岐氏も秀吉の配下となり、領地も安堵された。佐々成政が、肥後国人一揆で責任をとられて自害し、かわりにはいってきた、小西行長や加藤清正などに服属した。しかし、天正17年(1589年)に、小西行長の宇土城の城普請では、命令に服さず、小西・加藤の連合軍に打ち破られ、麟泉は島津氏を頼った。