小西行長
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 弘治元年(1555年)? | |||
死没 | 慶長5年10月1日(1600年11月6日) | |||
別名 | 弥九郎(幼名) | |||
官位 | 従五位下、内匠頭。摂津守 | |||
氏族 | 小西氏 | |||
父母 | 父:小西隆佐、母:小西マグダレーナ | |||
兄弟 | 兄:小西如清、弟:小西行景 | |||
妻 | 小西ジュスタ | |||
子 | 某(名不詳) 娘(宗義智室)ほか |
- キリシタン大名として知られた。洗礼名はアウグスティヌス。
- 朝鮮出兵のとき、加藤清正と先陣を争ったことでも有名である。
- 関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦したが敗北し、キリシタンのために切腹を拒否して斬首された。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 秀吉に仕えるまで
弘治元年(1555年)、堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都で生まれた。父の影響を受けて早くにキリシタンになった。はじめ宇喜多直家の家臣として仕え、主に外交担当の使者を務めていたと言われている。直家が羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じて織田信長に降伏できたのも、行長が秀吉と交渉したからであるとも言われている。
ただし、秀吉に仕えるまでの動向は良くわかっていない。生家跡と伝えられる場所は堺が繁栄していた時代のメインストリート大小路通りにあり、現在は石碑を残すのみとなっている。また、生年に関しても永禄2年(1559年)説もあり、疑問が残るところもある。
[編集] 羽柴(豊臣)家臣時代
天正9年(1581年)に直家が死去すると、羽柴秀吉の家臣として仕えた。豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていた。しかし水軍を率いて参戦した天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでは、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。
天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後半国24万石を与えられた。肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたという。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では先鋒部隊として朝鮮へ進攻する。そして釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げた。
その後、朝鮮での戦況が不利になると、石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈維敬らと共謀し、秀吉が明に降伏したことにしたと偽って講和を結ぼうとする。なお、この時日本側の使者として明の都・北京に向かったのが、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)である。
この結果、明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に書の内容をごまかすよう、書を読み上げる西笑承兌に依頼するものも、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、死を命じられるが承兌のとりなしによって一命を救われる。
講和交渉における不忠義の埋め合わせとして、慶長2年(1597年)からの慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。しかしこのとき、加藤清正と作戦をめぐって対立するなど、後に武断派との対立の一因を成した。
[編集] 関ヶ原
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。その後は加藤清正らとの路線対立から石田三成ら文治派に与し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。
9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の織田長益、古田重勝、金森長近、寺沢広高の部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小早川隊に襲われて小西軍は壊滅し、行長は伊吹山中に逃れた。しかし9月19日、竹中重門の手勢に捕らわれ、10月1日に六条河原において三成に続いて斬首された。その後、首は徳川家康によって三条大橋に晒された。
[編集] 人物
- 徳川家康は、関ヶ原前に行長の嫡男と家康の嫡男・松平信康の孫娘との結婚を持ちかけており、行長の有する強大な水軍、戦力を手に入れておきたかったことが窺える。
- 敗戦後、自害せず斬首されることを選んだのは、自殺を禁じたキリスト教の教義に従ったためとされている。
- 行長は商人の子であることなどから文治派というイメージがあるが、当時の商人は少なからず武力を抱えていたことを忘れてはならない。また『戦いは前に出てこそ』という信条を持っていたともされる。
- その名は宣教師の手によって欧州にも知られており、ローマ教皇もその死を惜しんだという逸話がある(真偽は不明)。
[編集] 加藤清正との対立
- 領地が互いに隣接していたため、常に境界線をめぐって争ったといわれている。
- 清正が熱心な日蓮宗信者であったのに対し、行長が熱心なキリシタンであったことも、対立に一因を成したという。
- 清正からは吏僚派のひとりと見なされて、「薬問屋の小倅」と侮られたという。その反発として行長は、朝鮮出兵のとき、軍旗として紙の袋に朱の丸をつけたものを使用したという。ちなみに、紙の袋に朱の丸とは、当時の薬袋である。
- 朝鮮出兵のとき、行長は清正を出し抜いて釜山浦上陸を果たし、一番乗りの功名を奪った。さらに京城攻めに関しても、どちらが先に一番乗りするかを争い、一日の差で清正を出し抜いたという。
[編集] 子孫
- 父の隆佐は文禄元年(1592年)に京都で病死。母のマグダレーナはキリシタンであり、行長の刑死後まもなく亡くなったという。
- 正室のジュスタは夫と同様に熱心なキリシタンであったが、行長没後の行方は不明である。
- 関ヶ原敗戦後に12才の嫡男は毛利輝元によって処刑されている。名は兵庫頭と伝わる。この当時12歳といえば元服間近の年齢であり、国主級の上級大名の嫡男であることを考えると、官途を与えられていても不思議ではない。石田重成も関ヶ原当時十代前半であるが、隼人正の官を受けている。
- 末子は名を浅山弥左衛門と伝わり、黒田家の資料「黒田家御家人先祖由来記」によると加藤家、有馬家(肥前有馬氏)に歴仕した後、島原の乱で筑前福岡藩主の黒田忠之の家臣となったとされる。加藤、有馬家を退転した理由については不明であるが、加藤家のキリスト教への弾圧の苛烈さなどを考えるにキリスト教の信仰が関係していると思われる。ちなみにこの資料では弥左衛門の二代後までが確認できる。
- 兄に堺代官となった小西如清、弟に宇土城代小西行景、隈庄城主小西主殿介、文禄の役の際の物資輸送に関する命令書に使者として名前が登場し同役で戦死した小西与七郎がいる。ちなみに全員がキリシタンであり如清はベント、主殿介は霊名ペトロ、与七郎は霊名ルイスと伝わる。行景の霊名は伝わらない。このほかアントニオの霊名を持つ者の一門衆も伝わるが、続柄は不明である。このほか、家臣に数人の女婿がいた模様である。
- マカオに追放され、ローマの修道院で修行し司祭の位を得た後の寛永20年(1643年)に日本に帰国し、処刑された日本人司祭・マンショ小西神父(明治以前では最後の日本人司祭)は孫というが、詳細は不明。殉教の地も分かっていない。