恵帝 (漢)
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恵帝(けいてい 紀元前210年~紀元前188年 在位紀元前195年~紀元前188年)は、前漢第2代皇帝である。姓は劉。諱は盈。高祖劉邦の嫡子(第2子)で、生母は呂雉(高后)。一説に生年は紀元前213年。
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[編集] 略歴・人物
[編集] 生涯
劉邦の嫡出子ということで、彭城の戦いの直後に王太子に立てられ、関中で父の留守を守った。ちなみに、その彭城の戦いでは劉邦が大敗し、馬車で親子ともども逃げる際に劉邦に姉の魯元公主とともに馬車から突き落とされるが夏侯嬰により救われる。楚漢戦争終結後は、皇太子に立てられるが、父・劉邦と違って穏やかで大人しい性格のためか、父の不興を買い、度々、皇太子の地位を廃されそうになった。生母・呂雉を初めとする呂氏一族や張良等々の後援で皇太子の地位を確保し、父の死後、帝位に即くが皇太后となった呂雉の専横に頭を抱えることとなる。極めつけとして呂雉は、跡目争いで恵帝の有力なライバルであった趙隠王・劉如意やその生母・戚氏等に対し異常ともいえる復讐を行ない殺害したのである。生母・呂后の行ないにショックを受け精神を病んだ恵帝は酒に溺れ、政務を放棄してしまい、なすところなく酒毒のために23歳(26歳などの諸説あり)で没した。
[編集] 後世の評価
恵帝は、その性格から劉邦から不興を買い、さらに呂雉の悪行になす術もなくただ手を拱いていた事から、性格の弱い、ただのお人好しのように言われることが多いが、実際は、彼自身の廃嫡が取り沙汰された際に、重臣の多くが彼を支持し、また、劉邦が親征した際に、その留守を預かり大過なくその役を成し遂げたりしている。呂雉が劉如意を暗殺しようとしている計画を知ると懸命に弟・劉如意の側に付き暗殺を未然に防いだり、また恵帝より上座に座った劉肥に対し怒った呂雉が毒の入った杯を劉肥に飲ませようとすると、同じ毒の入った杯を手に取り飲もうとしたり(呂雉が慌てて杯を零(こぼ)させて未遂に終わった)、一般に言われるような惰弱なだけの人物というわけではなかったようである。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 張皇后(姉の魯元公主の娘)
[編集] 子女
[編集] 関連
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