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劉邦 - Wikipedia

劉邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

漢高祖

劉 邦りゅう ほう紀元前256年または紀元前247年 - 紀元前195年、在位紀元前206年 - 紀元前195年)は、前漢の初代皇帝廟号太祖諡号高皇帝。しかし、一般には、漢の高祖として知られる。

目次

[編集] 略要・生涯

[編集] 概要

沛県の亭長(沛公)だったが、反秦連合に参加し、の都咸陽を落として一時は関中を支配下に入れるものの、項羽によって西方の漢中へ左遷され、漢王となる。後に東進して垓下に項羽を討ち、中国全土を統一、前漢を起こした。

[編集] 生い立ち

沛郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公、母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年についてははっきりした事は不明である。

劉媼が劉邦を産む前に沢の側でうたた寝をしていたところに、その夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っかっているのを見て、その後に劉邦が生まれたという。この事に関して、劉媼が無頼者に犯されて劉邦を生み、そのことを覆い隠すためにこのような話を作ったのではないかと司馬遼太郎などは推測しているが、もちろん詳細は不明。

また、の「」は『史記』では詳しくは記されおらず、史記の注釈にいたって初めて登場する。一応、出土史料から諱が「邦」であったことはある程度正しいと思われる。ただ、「邦」の語義は、元々『』(ピンインは“パン”、意味は兄貴)という意味の一般名詞ではないかと推測されている(司馬遼太郎・佐竹靖彦の説)。また、字の「季」も「末っ子」のことである。また父母の名前も「太公」はある程度年を取った男性の事であり、「媼」(は不詳)も同じく“おばさん”と言った程度の事で、長兄の伯(伯は字)にしてもこれは長男を指すものに過ぎない。このことから、劉邦一家の本名は不明であり、司馬遷が『史記』を書く際に判らないので、思い切ってこのように簡単な名前を付けたという説もあり、また避諱のため、わざとぼかした記録にしたという説もある。元々劉邦一家にはこれといって名前は皆無で、「沛の劉家の末っ子」などで通じるため不要だったが、後に劉邦が身を立ててから正式に名乗りが必要になったため、このような名前をつけたとも考えられる。

劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また太股に七十二の黒子[1]があった。

[編集] 任侠生活

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる任侠の徒であり、家業には手を貸さず、酒と女を好んで酒場に出入りしていた。縁あって沛の東にある泗水の亭長(犯罪取締り)という役職に付いたが、仕事をせずに役人をからかっていたので、沛の役人で劉邦を軽蔑しなかったものはいなかった。この役人の中に後に劉邦の覇業をたすけることになる蕭何曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦をあまり高く評価していなかったようである。しかし何故か人に好かれる性質があり、仕事で失敗しても周囲が弁護したり、劉邦が飲み屋に居ればいつのまにか満席になった。

ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列を見て、「ああ、男たるものああ為らなくてはいかんなぁ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った「あいつに取って代わってやる!」との言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格を表すものとして使われる。

単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に銭を持ってきていたが、あまりに集まった人が多いので蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうとしていた。そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と宣言した。驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、劉邦を上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭などもっていないのを知っていたので、「劉邦は前から大法螺は吹くが、実際に成し遂げた事は少ない。(だからこのことも本気にしないでくれ。)」と言ったが、呂公は構わず劉邦を歓待し、その人相を見て劉邦を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉(後の呂后)である。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、その間に呂雉は実家の手伝いをし、貧乏生活を2人の子供を育てながら懸命に生きていた。この頃に呂雉は劉伯の嫂にいじめられていたようで、後になって残酷な仕返しをすることになる。ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、老人が通りかかり呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることが出来ない。」と言い、劉邦は大いに喜んだという。この話はおそらくは作り話であろう。『史記』には他にもいくつかの劉邦が天下を取る事が約束されていたとの話を載せているが、それらも同趣向である。ただそれらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は漢が火徳の王朝ということを自称することに繋がっている。

[編集] 反秦戦争へ

[編集] 陳勝・呉広の乱と挙兵

ある時、劉邦は亭長の役目を授かり、人夫を引き連れて咸陽へと向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも逃亡して一部の行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。 紀元前209年陳勝・呉広の乱が起き反乱軍が勢いを持つと、沛の県令は反乱軍に協力するべきか動揺し、そこに蕭何曹参が県令では誰も従わないので人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだと吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じてに書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には城内の者に呼びかけて「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。今のうちに県令を殺して頼りになる人物(劉邦自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに答えて城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れ、劉邦は推戴されて県令となった。以後は沛公と呼ばれる。

この時に劉邦が集めた兵力は2、3千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。

この軍団を持って周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯(ようし)というものに任せたが、雍歯は旧の地に割拠していた魏咎に誘いをかけられて寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とせず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて、逃れた所を殺されており、部下の景駒が甯君と秦嘉というものに代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて景駒に兵を借りに行く。

紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが敗れて引き上げ、新たに碭(トウ、現在の安徽省碭山。碭は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めてやっと落とした。

豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺が失敗した後に、旧の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、張良は自ら首領になるタイプではなく、失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。張良自身も自らの不足を自覚しており、自らの兵法をみなに聞かせていたが誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は出会うなり熱心に張良の言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ。」と劉邦の事を褒め称えた。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れた。劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。

その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧懐王の孫を連れてきて楚王の地位につけ、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる。)。劉邦は項梁の下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。

同じ頃、項梁は何度となく秦軍を破るが、それと共に傲慢に傾き、秦軍を侮り、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは軍を引き返し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じてを攻めて趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として趙にいる秦軍と戦わせ、その後で咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を突かせようとした。そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。

趙へと向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破し、一気にその勇名を高めた。しかしその後、咸陽へと進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするというこれも凄まじい虐殺を行う。このことは後の争覇戦で項羽の悪評として残り、無形の影響をもたらす事になる。

[編集] 関中入り

時間を戻して。劉邦は西に別働隊を率いて行ったものの項羽軍と比べれば数・質ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)という所まで来た。ここで劉邦は儒者酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで知られており、酈食其に対しても足を投げ出してその足を女たちに洗わせるという態度で面会した。これを酈食其が一喝し、劉邦も無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた。酈食其の進言は近くの陳留は交通の要所で食料が蓄えられているのでこれを得るべきだと言い、更に城主は反秦軍を脅威に思っており帰順させるよう説得すると言った。劉邦はこれを任せ、陳留の城主はその通りに降り、劉邦は交通の要所と大量の兵糧を無血で得る。その兵力を合わせて開封を攻め落とした。

次いで韓に寄り、兵の少なさで苦戦していた韓王成と張良に援軍して、秦軍を駆逐し韓を再建。そしてその恩義を以って張良を客将として借り受ける。

更に南陽を攻略し、この城主が逃げ込んだ宛(河南省南陽)を包囲してこれの降伏を受けて、秦の領域へと近づいていった。この侵攻の際にも陳留のように降伏を認め、降伏した場合は城主をそのままの役職に任命したため、無駄な戦闘はせずその進軍は項羽よりも早かった。そうして関中の南の関門である武関に迫った。

この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部で動揺が走った。始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権を奮っていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。劉邦はこれを偽者だと思って、自らの軍を持って武関の守将を張良の策によりだまし討ちにしてこれを破った。趙高の提案はあまりにもばかげており、仮に劉邦がこれを本物だと思っても相手にしなかっただろう。

続く嶢関は秦最後の砦で決死の兵が居たが、張良の策により守将が商人であることを突き、大量の旗を重ね大軍と見せておいて降るように誘った。実際守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと察しており、これは油断させるためで、その不意を突き突破した。 こうして劉邦軍は関中に入る。最早阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。

その後、趙高は王に建てようとしていた子嬰に逆に殺され、子嬰は覇上にまで迫っていた劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。部下は子嬰を殺してしまうべきだとの声が高かったが、劉邦はこれを許した。
咸陽へと入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊噲と張良に諫められ、覇上へと引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にすら思えただろうが、諌められると一切手を出さなかった。こういった諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下を信頼する点は、項羽と特に対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きく働くことになる。
ちなみに蕭何は秦の文書殿に入り、書物を全て持ち帰った。これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。

[編集] 漢王劉邦

覇上に引き上げた劉邦はこの地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて法三章を宣言する。法三章とは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりも出来、特に政道批判はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」とだけに改めたものである。この施策によって関中に於ける劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。

その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにも係わらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じ入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせた。劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、それが劉邦が既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしている。これに激怒した項羽は英布に命じてこれを破った。函谷関は難攻不落の要害だったが、守備兵が味方兵士と戦うことに気乗りしなかったことも破られた一因である。項羽は関中に入り、激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍をもって劉邦を殺してしまおうとした。劉邦の部下である左司馬曹無傷もこれに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしておりまする」と讒言したので、項羽はますます激怒した。

劉邦は自らの観測の甘さを悟り、狼狽して何とかしたいと願った。その時、ちょうど項羽の叔父である項伯が劉邦軍の中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出すために来ていたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びる事を断り、劉邦に引き合わせて何とか項羽に対して命乞いをと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲により虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。

陣中へと戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。

その後、項羽は彭城に戻って西楚の覇王を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と称して、辺境に流し、これを殺してしまった。紀元前206年、諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っており、多くの不満を買い、後に次々と反乱が起きる。劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられ、これが劉邦を「左に遷す」と言ったことから左遷の語源になったと言われている(もっとも当時において、「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、両方の用法が併用されていた。つまり後者の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。
劉邦の東進を阻止するために、関中を章邯ら旧秦軍の将軍三人に分割して渡された。

当時の漢中は非常な辺境であった。途中にはの桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があり、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。

ちなみに、関中入りしても秦王の命を奪わず宝物もそのままにした劉邦に対し、項羽は秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、見事な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。この差が人心が項羽から離れ劉邦に集まる一因となっている。

[編集] 楚漢戦争

[編集] 項羽への反抗

この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたのだが、項羽にはその才能はまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。韓信も最初は兵卒として劉邦へ志願していたが、韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により兵の全権を持つ大将軍として任命した。その際に韓信は、項羽は強いがそれは脆いものであり、特に処遇の不平により不満が蔓延しているため東進の機会は必ずくる。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できると説いた。また、関中の三王は20万の兵士を犠牲にした元将軍であり、人心はついておらず関中は簡単に落ちる。兵士たちが東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になると説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。

そして韓信の予言通り、反乱が続発する。項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。 その中で項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策で桟道を通れなくしており、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗の気がないように見せかけた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていたの田栄を討伐に出た。

それを見た劉邦は桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出て、一気に章邯らを滅ぼして関中を手に入れ、ここで劉邦は社稷を建てた。

この時にも項羽の悪い癖は収まらず、斉の城を落とすたびにそこの住民を全て殺す事を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽が斉攻略にかかり切りになり、その隙に乗じた劉邦は東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。

[編集] 大敗北

紀元前205年、劉邦は諸侯との合同軍56万人を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は浮かれてしまい、また韓信も合同軍を率いていなかった為に軍令は乱れ、日夜城内で宴会を開き、女を追い掛け回していた。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は軍内から3万の精鋭を選んで帰還し、漢軍を散々に打ち破った。この時の死者は十万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという。劉邦は慌てて逃亡したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。

逃げる際に劉邦は夏侯嬰と劉盈(恵帝)と魯元公主と一緒にいて、夏侯嬰の御者で楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために二人の子供を突き落とした。夏侯嬰が拾ってきたがまた落とし、その度に夏侯嬰が拾ってきた。補足・「親から子は生まれるが、子から親は生まれない。」という事で、親である劉邦を保全するために子を殺すというのは儒教的倫理からすればそれほど非難されるものではない。

劉邦は碭で兵を集めて一息ついたもののここで項羽に攻められればどうしようもないので、随何に命じて英布をこちら側に引き込もうとし、これに成功した。しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽(河南省滎陽)に集めて、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期に謀略家・陳平が加わっている。

その一方で別働隊に韓信を使い、魏・趙を攻めさせて項羽を後ろから牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。

紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道が壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍中に対して離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増鍾離昧と言った者との間を裂く事に成功し、范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。

離間の計は成功したものの漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ逃亡した。その後、滎陽は御史大夫の周苛が守り、持ちこたえたものの項羽の前に落とされた。

西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる。南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言し、劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はこちらへと向かってきた。そこで項羽の後ろで彭越を策動させ、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を討った。劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(河南省氾水)へと入った。項羽はこの城を囲み、劉邦は支えきれずに逃亡した。

夏侯嬰のみを供として逃亡していた劉邦は韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、韓信が寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。更に劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じた。

韓信は軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも打ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるという事が起きている。

[編集] 再び敗れる

紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して専守防衛に出ていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防衛に徹し、項羽が戦おうとしてもこれに応じなかった。

その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離脱してしまえば取り返しがつかないので韓信を斉王にした。

両軍が対峙する事長きに及び、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引っ張ってきて「煮殺されたくなければ降伏しろ」と言ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいた事を出してきて「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」と反撃した。次に「二人で一騎打ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽はの上手い者を伏兵にして劉邦を射させ、このうちの一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をした。しかし劉邦が大怪我をしたという情報が軍中に流れてしまえば全軍崩壊の危険があると考えた張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、劉邦は足に矢が当たったと自ら触れて回り、兵士の動揺を収めた。

その頃、彭越は未だに楚軍の後方で活動して楚の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分ける事で講和した。この時に劉太公と呂雉が戻ってきている。

[編集] 天下統一

項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていた所、張良と陳平がやって来た。退却する項羽の後を襲えと言うのである。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は一気に元気になり、漢軍は最早敵し得ないだろうと考えたのである。劉邦はこれを入れて、項羽の後ろを襲った。

それと同時に韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそこを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も劉邦へと雪崩をうって味方し、項羽を垓下に追い詰めた。

追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲して兵糧攻めを行い、そして四面楚歌の計略を用いて楚軍を崩壊させた。

項羽は垓下から残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡する事を潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦はいまだ抵抗していたを下し、元項羽軍の者たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。

紀元前202年、群臣の薦めを受けて皇帝位に即位した。

論功行賞をした際に戦場の功のある曹参を押す声が多かったが、それを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は蕭何の用意してくれた兵員が無ければとっくの昔に敗れていた事を知っていたのである。また韓信を楚王に彭越を梁王に封じ、張良に3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、論功行賞で不平を招き反乱を防ぐために張良の策で、劉邦挙兵時より邪魔をし続け劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を一番に上げ什方侯にさせ、他の諸侯も自分にもちゃんとした恩賞が下ると納得した。

劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「わしが天下を取って、項羽が天下を失った理由を言ってみなさい。」と言った。

これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があったものには惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます。」

劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。項羽は范増一人すら使いこなせかった。これがわしが天下を取った理由だ。」と答え、その答えに群臣は敬服した。

[編集] 粛清

その年の7月、王臧荼が反乱を起こし、劉邦は自ら親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。これを初めとして次々と反乱が起こる。その中で劉邦は次第に家臣たちに猜疑の目を向けるようになる。特に韓信・彭越・英布の三人は領地も広く、当人たちも百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。

ある時に「韓信が反乱を企んでいる」と言ってくるものがあった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説いてこれをだまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信もそこに来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離昧の首を持参した韓信がやってきた所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。

翌年、匈奴に攻められ降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征して韓王信を下した。翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つために更に北へ軍を動かした。しかしこの戦いで劉邦は匈奴の作戦に引っかかり、包囲された。陳平の策で命からがら逃げ出して、匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしない事にした。

紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で誅殺された。この時に劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺された事を聞かされるとこれを悲しんだ。

同年、彭越は捕らえられて蜀に流される所を呂后の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が良くなく太子(恵帝)を代理の将にしようかと思っていたが、呂后らにこれを諫められ、自身でも太子では頼りなく思い、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で懐かしき沛に来て宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。

大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚)
威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故鄕)
いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方)

そして沛に対して永代免租の特典を与え、沛の人たちから願われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。

しかし英布戦で受けた矢傷が元で更に病状が悪化し、翌紀元前195年に呂后に対して今後誰を丞相とするべきかを言い残して死去した。

死後、太子が即位して恵帝となるが、実権は全て呂后に握られ、呂氏の時代がやってくる。しかし呂后の死後、周勃と陳平により呂氏は皆殺しにされ、文帝が迎えられ、文景の治の繁栄がやってくる。

[編集] その他

[編集] 劉邦の影響

史上初めての皇帝・始皇帝はこれ以降の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は善例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」との形を後世の人々の頭の中に作る事になる。例えば朱元璋李善長より「劉邦のごとくすれば、天下はあなたのものになる。」と進言され、これを受け入れている。

特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼しその才を遺憾なく発揮させる点は、後世でも度々引き合いに出された。

[編集] 劉邦に関する著述

劉邦に関する典籍は、司馬遷の『史記』「高祖本紀」、班固の『漢書』「高帝紀」など。通俗本も多く、中国の古典小説『西漢演義伝』を元にした『通俗漢楚軍談』が江戸時代によく読まれた他、長与善郎の戯曲『項羽と劉邦』が昭和前期に読まれ、現代では司馬遼太郎による小説『項羽と劉邦』が有名である。最近では横山光輝による漫画『項羽と劉邦』、『史記』、本宮ひろ志漫画赤龍王』が一般にも読みやすくて人気がある。劉邦とその時代を扱った映像作品としては、『漢劉邦(邦題 : 劉邦と項羽)』、『淮陰侯韓信(邦題 : 項羽と劉邦・背水の陣)』がある。

[編集] その妻妾と子女

  • 皇后 呂雉
    • 魯元公主
    • 恵帝(劉盈)
  • 妾 薄氏(皇太后、旧魏の王族系出身)
    • 劉恒(代王→文帝)
    • 絳侯・周勝之(周勃の長子)夫人(一説では文帝の双子の妹)
  • 妾 趙氏
    • 劉長(淮南厲王)
  • 生母の氏名が不詳の庶子
    • 劉恢(淮陽王→梁王→趙共王)
    • 劉友(河間王→淮陽王→趙幽王)
    • 劉建(燕霊王)

[編集] 注釈

  1. ^ 七十二とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。

[編集] 関連項目

先代:
前漢皇帝
初代
次代:
恵帝

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