戚氏
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戚氏(せきし ?~紀元前195年)は、秦末から前漢初期の人。劉邦の側室で、劉如意の生母。
楚漢戦争中に劉邦に見初められ、その寵愛を一身に受け、劉如意を生む。その影響で、代王、次いで趙王に封建された息子・如意も有力な皇太子候補と目されるようになる。さらに彼女は、劉邦(高祖)が親征を行う度にこれに随い、度々、如意を皇太子に立てるように懇望する。
本来ならば、戚氏の行動は許されるものではないのだが、高祖自身が戚氏を寵愛しており、されに当時の皇太子・劉盈に対して父親である高祖自身が、その資質に前々から疑問と不安を抱いていたこと、さらに盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、高祖も徐々に盈を廃嫡して、如意を立てることを考え始める。
だが、高祖が皇太子交代の意向を漏らし始め、重臣達に諮るも重臣達は尽く反対。さらに、高祖の信任が厚い張良の助言を受けた盈がかつて高祖が招聘に失敗した有名な学者達を自らのもとに招いたことが決定打となり、高祖は皇太子を従来の通り、盈とすることを決め、如意は趙王のままとされた。
しかし、この一連のことは盈の生母である皇后呂雉の激しい憎悪を戚氏母子が受けることとなり、紀元前195年に高祖が死に、盈が即位(恵帝)すると、皇太后となった呂雉のすさまじい復讐劇が始まる。
先ず、戚氏を捕らえて宮中に監禁すると、長安に入朝した如意を毒殺。次いで、戚氏の手足を断ち、毒を盛って声を奪い、聴覚を失わしめ、目をくりぬいたうえで、便所に投げ入れ、これを「人豚」と称して見せしめにしたという。これを目の当たりにした恵帝はショックで寝込んでしまい、1年以上もの間、政務を放棄したという。
かくして、戚氏は便所の中で悲惨な死を遂げたのである。
但し、この記述は呂雉の史書に記述されていただけなので実際にこのようなことを行っていたかどうか疑問点があると言われている。